トンネルの「完成」とは何か
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幾多の試練を乗り越え、1982年11月15日、上越新幹線は開業した。
開業から25年、着工からは35年となる。トンネルを数多の人々が通り過ぎ、その恩恵を無自覚に享受している。
一方、トンネルの築造によって失われた物も数多い。
特に、歴史イコール水との死闘であった中山トンネルには「渇水」の文字がつきまとった。
その後始末は、今もなお続いているのである。
工事誌p.805-806、p.1286-1301には、中山トンネル完成後の湧水対策の数々が記されている。
2007年の盆休み、二度目の取材でこれらを見に行くことにした。
工事誌p.1300-
「これらの(渇水)対策が完了するまでは中山トンネルが完成したとは言い切れなく、−」
創造のための犠牲に対する、未来永劫続く供養と鎮魂の「業」である。
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高崎方坑口周辺
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時期的に、帰省ラッシュで大渋滞に巻き込まれる危険はあったのだが、行程の大半において方向が逆であることを読んで正解であった。
但し別の誤算があった。記録的な猛暑である。昼間は言わずもがな、夜中も30℃を下回らない異常な天候であった。
熱射病防止のため休憩を頻繁に取り、水分も大量に要した。
判断力も鈍ったのか、前回の調査より余計に時間が掛かってしまった。
判断力が鈍ったせいで道を間違えてしまったが、ついでに撮ったのが左の写真である。
吾妻線の金島駅手前の踏切から小野子・子持山に向けている。中山トンネルはこのUの字の底あたりを突き通している。 |
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この日は雲一つ無い青空で、写真は非常に映える。が、日照りも当然きつくなる。
何とか現場に到着。
折しもMaxが通り過ぎていく。
場所的に非常に窮屈なところだとは前回述べたが、吾妻川の河岸に下りられる道を発見したので、そこから撮影している。
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別アングルから。
架線柱の間隔が約40mある。
上の写真を見ても分かるように、橋桁の一番太い部分はMaxを三段重ねにしたほどはある。単体で見るとスリムだが、比較物があると改めてその偉容に驚く。
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もちろん、本題は橋ではなくてトンネルだ。
上の写真から首を左に振るとこのように見える。さすがに手狭なだけあってトンネルのポータルさえ満足に見えない。
しかし、私の目的は既に達成している。なぜなら非常に重要な構造物がちゃんと写っているからである。
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重要な構造物とは、この筒状の物体である。
中山トンネルは、完成後もトンネル内全体の湧水が54t/分にのぼり(開業時の値)、そのうち後述の渇水対策に必要な分を差し引いても30t/分を排水しなければならない。
そこで、高崎方坑口のすぐ近くに吾妻川へ放流する導水管を設置したが、直接流下させると落差で水圧が増してしまうので、当初は受水槽で受けてゲート開閉により吾妻川へ放流する計画であった。しかし保守上の問題から、メンテナンスの簡易な水塔式放流塔を設置することになったのである。
筒の中にはもう一つの筒が入っており、その筒の高さより水かさが増えなければ流れ落ちない仕組みになっている。 |
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地図での位置関係は左のようになっている(ポイントで解説)。
左下の建物(福祉施設?)の東側の道路が写真を撮ったところである。
水塔式放流塔は国道脇の崖っぷちにあるが、保守の都合上アプローチは当然可能ではある。
ただ、この日はあきらめざるを得なかった。交通量が多く、歩道のない353号を行くのには抵抗があったのと、ものの10分もすれば脳天がチリンチリンになってしまう猛烈な日差しに参ってしまったからである。
次回があれば塔の間近に迫ってみたい。
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渇水補償施設・その1
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渇水補償施設といえば、前回の大発見であった四方木揚水立坑もそのひとつである。他にも数多くの揚水施設があるが、ほとんどは工事用深井戸の転用であった。
しかし工事誌p.1298-1299を読むと、渇水補償専用に新たな揚水立坑を2つ設置したことが判明した。
そのうち1つは、小野上北工区の出水事故と南工区の水抜きにより涸れてしまった八木沢に放流する施設だという。
まずそれを探すために、左の地図の八木沢と本坑の交点あたりを中心に赤線のようなルートを回ったのだが、全くそれらしい物を見つけることはできなかった。
それ以前に、八木沢を跨ぐばかりで近づくことができない。
なぜだ?
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赤線のルートを3周もしただろうか。車内も冷房がロクに効かずどうにかなりそうな状況で、もはやこれまでと思った時だった。
それまで民家の庭先に行く道路だと思っていた非常に狭い道が、送電線を伴って林の切れ間へと消えていくのに気づいたのである。
今になって改めて左の地図を見ると、その不自然な立地は一目瞭然なのだった。
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これを見つけた瞬間のインパクトはかの四方木立坑以上に感じた。
周囲は完全に杉林の天然バリケードで囲われており、何周しても発見できないのは当然であった。
実にものものしく、大がかりな施設である。名前を「八木沢揚水立坑」という。本線102k532mのほぼ直上にあり、揚程60m、最大10t/分の揚水能力を持つ。
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道路と一緒についてきた電柱は、子持村長の名義になっていた。子持村は現存しないので、現在の管理者は渋川市ということになるのだろうか。
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全体を一回りしてみた。
受電設備、ポンプ室とおぼしき小屋、バルブ、水槽などが設備されている。しかし「新幹線」や「鉄道」のそれと分かるような表示はどこにも見つけられなかった。
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一番上の写真とどこが違うのかと言われそうだが、実は一番最初に撮ったのはこれである。上の写真は全体を入れるために引いて撮った物だ。
このときは、バルブのほうの管から水が「ドドドドド」と凄い勢いで流れていた。しかし一定調子ではなく、「ドドドドッ・ブヒュー・ドパッドパッ」という変なリズムが続いた後、急速に勢いが無くなって止まってしまった。残ったのはポンプ室の不気味な唸りと騒々しい蝉の声だけである。
新幹線が通過すると気圧変動で出方が変わるのかも知れない。次は列車の時刻をきちんと調べて音の収録に挑みたいところだ。
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渇水補償施設・その2
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次に探したのは、同じく小野上北斜坑の出水で自噴水が涸れ、流量の激減した関口沢への対策設備である。
関口沢は、八木沢のすぐ西を流れているのだが、アクセスは非常によろしくない。2つの沢は尾根を1つ挟んでいるので直接繋がる道がないのだ。
左の地図では道を途中で見限っているが、実際はもっと北まで延びているはずである。それはそれはひどい道で、舗装されているのがせめてもの救いとはいえ路面は荒れ放題。ガードレールも交換所もないのに途中で佐川急便とすれ違ったときは泣きそうになった。
そんな道でも佐川が通るのは人が住んでいるからで、ドライバーも大変なことだろう。 |
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途中、何度も「あれか?」と思わせたのは全部簡易水道の施設であった。もっとも、その簡易水道も井戸の枯渇がきっかけで整備されたのだから、全く無縁というわけではない。
だいぶ奥地へ入っただろうか。
おもむろに道が真木沢(関口沢支流)を跨いで西側に行き、向きが180度変わってしまった。
「あれ?じゃこの先無いのか?」
としばらく橋の袂で首をかしげた。
もう一度よく工事誌を見ると、何と施設の場所は沢の西側に記してある。
ということは…と、橋を跨いで南に向いたその時、
この門扉。。。
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くわーっ。
さっきの八木沢のも凄かったが、こっちは完全に「新幹線様式」である。
これは「真木沢揚水立坑」という。揚程は実に200m、揚水能力は6t/分である。
ただ疑問なのは、「立坑」の存在する場所である。工事誌には本線105k100mとあるのだが、本坑より西に200m近く離れているのだ。
高さも200m違うので、斜めに伸ばしたと考えることもできるが、立坑と言うからには、200mの横坑が地下に存在する可能性が高い。
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その外観もかなり異質である。
八木沢揚水立坑には、ポンプ室も受水槽も備わって「分かりやすい」構造をしていた。しかるに、真木沢揚水立坑の地上構造物はこのキュービクルだけである。他の設備はどこにあるのだろうか。
地面が広範囲にわたってコンクリートが打たれているのが気になる。カルバート(函渠)になっいて設備類この中なのだろうか、と考えるにしても入口がない。その上水がどこから出てくるのかすらも皆目見当が付かない。謎だらけである。
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しかし八木沢にはない物がここにはあった。
借地を示す看板の下には、はっきりと「日本鉄道建設公団」の文字が記されていた。
少なくともこの地で30年、人知れずただ黙々と地域の人のために稼働し続けている。
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最後に、再び訪れた高山揚水深井戸の写真をもってこの章の締めくくりとしたい。
まだ調べ尽くしていない感はあるが、ひとまず終えることができた。
より速く、目的地に着きたいという社会の要求。それを可能とした新幹線は、何オートマチックで、マスプロで、全てがサクセスストーリーなように見られがちである。筆者自身も永らくそう思っていた。
しかしその機械的なまでに正確で、安全な鉄路を実現する過程には、実に泥臭く、危なっかしく、無茶なことをやってのけた先人達の遠大な努力がある。そして、便利さの裏に今も払い続ける代償…
それらのことを顧みるとき、目の前にあるただのコンクリートの塊にさえ、畏敬の念を禁じ得ないのである。
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