昭和54(1979)年9月27日にルート変更が決定された後、ただちに迂回工事を開始した。
迂回ルートも、106k500m、107k300m、108k200m付近に八木沢層が分布しているため、導坑や迂回坑の近接した場所では坑内注入を、それ以外は地表から大深度のボーリングを行って坑外注入を実施することになった。この注入工事の成否がトンネルの完成時期を決める最大要素であった。
四方木工区の北側に位置する高山工区もまた、八木沢層、および別の地層でこれまた厄介な古子持火砕岩層に悩まされていた。
前二例に比べて小規模だが、何度も突発湧水と土砂流出に見舞われていたのである(p.720-721)。
昭和52(1977)年11月1日、109k722m右水抜坑から30m^3の土砂流出。
同じ年の11月17日には、109k699m左側壁導坑で約100tの突発湧水と共に土砂300m^3が流出(最終的に600m^3)。
昭和53(1978)年4月22日、109k711mの下半左側より10m^3、続けて50m^3の土砂が流出。
同年5月9日、109k713mで天端から100tの突発水とともに230m^3の土砂が流出し、切羽から73mが埋没。
その復旧を109k693mまで進めたところ、翌5月10日山鳴りと共に150tの出水と810m^3及ぶ土砂流出で、何と1300mも埋没し、一部は立坑坑底まで達した。
以上は全て立坑の新潟方であり、少量の湧水でも崩れてしまう古子持層の厄介な性状を物語っている。新潟方大迂回坑の計画もあったが安定した地層が見あたらず、頓挫した。その後真空水抜工法を採用したり、中山工区側からの応援があり無事貫通することとなる。
一方、大宮方は108k100m〜300m間に八木沢層の横断を確認したため工事が中断したが、本線左に閃緑ひん岩の存在が分かり、108k400m付近より約700mの迂回坑を掘削して本線107k900mに到達した。つまり、八木沢層を両側から挟み撃ちにする計画であった(参考:本文p.671、723、図4-5-10、4-5-11)。
八木沢層を回避した後の進捗は早く、昭和54(1979)年末から翌年に掛けて、107k500m付近で四方木工区の導坑と貫通している。(注:工事誌に貫通位置と時期の明確な記述はないが、工区割と諸事象の発生時期を勘案するとそのようになる)
こうして四方木工区大出水事故による遅れを回復すべく、各工区ともスパートを掛けようとしたその矢先、
またしても悪夢が起こる。
(参考:本文p.811-812)
昭和55(1980)年3月6日、八木沢層を突破するための注入を行いながら、108k125mまで側壁導坑を掘進した。この段階では残湧水がほとんど無い状態で、注入の効果が出ていた。その後、次の注入のためのボーリングを行い、導坑の仮巻コンクリートを準備していたところ、3月7日23時30分になって108k110m付近の導坑矢板に変状が発生した。直ちに補強作業に入ったが間に合わず、翌3月8日9時30分、山鳴りと共に約40t/分の出水が発生した。この時既に四方木工区とは貫通していたため、勾配の都合上水は四方木工区にも流れていった。
それでも出水から約1.5日は、四方木・高山立坑の揚水能力の範囲内であったためかろうじて水没を免れていたが、3月9日17時30分、現場の二次崩壊により何と110t/分に及ぶ大出水となり、遂に四方木・高山の2工区が完全に水没した。
−関係者に与えた衝撃ははかり知れないものがあった−
工事誌の一文である。
承前の「上越新幹線・トンネルと豪雪に挑む男たち」でも描写されているが、関係者の絶望ぶりと士気の低下は著しいものがあったという。四方木工区の水没から1年、復旧してからは半年も経っていない。
なおかつ、この事故をもって東北新幹線との同時開業の期待に最後のトドメが刺された。
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