Treasure Reports
第二編 上越新幹線(大宮−新潟)
第五章 中山トンネル

第三節 挫折の曲線

前代未聞

四方木工区完全水没により、これまで頑なにしてきた"正面突破"の試みは、路線変更を余儀なくされることとなった。
そして、当時の鉄道建設公団総裁であり、後に国鉄総裁となる仁杉巌は重大な決断をする。

本坑を、曲げる!

これまでの小野上北斜坑四方木工区注入基地大出水をふまえると、八木沢層特に危険だ、という認識が広まりつつあった。しかし計画通りの線形では、四方木工区高山工区の大半はその八木沢層の中をぶち抜かなければならない。
後述する高山工区大迂回坑を掘り、また四方木工区の実績から、本線位置を若干東に振れば良好な地質の茶屋ヶ松閃緑ひん岩を通過できることが判明した(注:ひん岩の「ひん」の字は王へんに分と書く。JISコードにないため表示できない)。
昭和54(1979)年9月17日水没事故から丸6ヶ月を費やし、ようやく四方木工区の水抜きが終了した。
その3日後の9月20日中山トンネルの線形変更国鉄総裁に上申される。
トンネル本坑の位置を工事開始後に変更するなどということは先例のないことであったが、この申請はわずか1週間という異例の速さで承認された。



この図は工事誌p.823図4-13-1、およびp.824図4-13-3を基にしたものである。
この線路変更においては、以下の条件が課せられた(注:p.722-823本文より)。

小野上南工区導坑105k600m付近まで来ており、工事のやり直しを最小限にすること。
高山工区108k130m350から半径6000m緩和曲線が設計されているため、これを変更しないこと。
106k600mにおいて、当初ルートから本線を75m右に外せばひん岩の被りを5m確保できる。
新幹線鉄道構造規則に基づき、曲線を半径4000m以上で設計すること。

こうして、線路変更の範囲は105k292m41〜107k937m57となった。旧ルートから最も離れた所で85.81mのずれである。

おや??と思った方もいることだろう。
現在の中山トンネル半径1500mの急曲線によって160km/h制限が課せられているはず。この線形は違うのでは?と。

そう、これは実現しなかった「幻のルート」なのである。
三度目の悪夢

昭和54(1979)年9月27日ルート変更が決定された後、ただちに迂回工事を開始した。
迂回ルートも、106k500m107k300m108k200m付近に八木沢層が分布しているため、導坑や迂回坑の近接した場所では内注入を、それ以外は地表から大深度のボーリングを行って坑外注入を実施することになった。この注入工事の成否がトンネルの完成時期を決める最大要素であった。

四方木工区の北側に位置する高山工区もまた、八木沢層、および別の地層でこれまた厄介な古子持火砕岩層に悩まされていた。
前二例に比べて小規模だが、何度も突発湧水土砂流出に見舞われていたのである(p.720-721)。

昭和52(1977)年11月1日109k722m右水抜坑から30m^3の土砂流出。
同じ年の11月17日には、109k699m左側壁導坑約100t突発湧水と共に土砂300m^3が流出(最終的に600m^3)。
昭和53(1978)年4月22日109k711mの下半左側より10m^3、続けて50m^3の土砂が流出。
同年5月9日109k713mで天端から100t突発水とともに230m^3の土砂が流出し、切羽から73mが埋没
その復旧を109k693mまで進めたところ、翌5月10日山鳴りと共に150tの出水と810m^3及ぶ土砂流出で、何と1300mも埋没し、一部は立坑坑底まで達した。

以上は全て立坑の新潟方であり、少量の湧水でも崩れてしまう古子持層の厄介な性状を物語っている。新潟方大迂回坑の計画もあったが安定した地層が見あたらず、頓挫した。その後真空水抜工法を採用したり、中山工区側からの応援があり無事貫通することとなる。

一方、大宮方108k100m〜300m間に八木沢層の横断を確認したため工事が中断したが、本線左に閃緑ひん岩の存在が分かり、108k400m付近より約700m迂回坑を掘削して本線107k900mに到達した。つまり、八木沢層を両側から挟み撃ちにする計画であった(参考:本文p.671723図4-5-104-5-11)。



八木沢層を回避した後の進捗は早く、昭和54(1979)年末から翌年に掛けて、107k500m付近で四方木工区の導坑と貫通している。(注:工事誌に貫通位置と時期の明確な記述はないが、工区割と諸事象の発生時期を勘案するとそのようになる)
こうして四方木工区大出水事故による遅れを回復すべく、各工区ともスパートを掛けようとしたその矢先、
またしても悪夢が起こる。
(参考:本文p.811-812)
昭和55(1980)年3月6日八木沢層を突破するための注入を行いながら、108k125mまで側壁導坑を掘進した。この段階では残湧水がほとんど無い状態で、注入の効果が出ていた。その後、次の注入のためのボーリングを行い、導坑の仮巻コンクリートを準備していたところ、3月7日23時30分になって108k110m付近の導坑矢板に変状が発生した。直ちに補強作業に入ったが間に合わず、翌3月8日9時30分山鳴りと共に約40t/分の出水が発生した。この時既に四方木工区とは貫通していたため、勾配の都合上水は四方木工区にも流れていった。
それでも出水から約1.5日は、四方木・高山立坑の揚水能力の範囲内であったためかろうじて水没を免れていたが、3月9日17時30分、現場の二次崩壊により何と110t/分に及ぶ大出水となり、遂に四方木・高山の2工区が完全に水没した。
関係者に与えた衝撃ははかり知れないものがあった
工事誌の一文である。
承前の「上越新幹線・トンネルと豪雪に挑む男たち」でも描写されているが、関係者の絶望ぶりと士気の低下は著しいものがあったという。四方木工区の水没から1年、復旧してからは半年も経っていない。
なおかつ、この事故をもって東北新幹線との同時開業の期待に最後のトドメが刺された。
最後の手段

昭和55(1980)年4月より、復旧のための止水注入工事が開始された。
一旦つながっていた四方木工区高山工区の導坑も遮断することにし、7月中には閉塞が完了して水抜きを開始した。
そして8月末、両工区の水抜きはひとまず終了した。

水没している間も時間が惜しまれた。
八木沢層を突破するには注入工事を行うしかないが、注入をして地山が固まらなければ掘削を進めることができない。そこで、既に工事の進んでいる108k030〜229m(高山工区出水地点を含む)から坑外注入の実施に入った。
この坑外注入もまた、前例のない大規模な工事であった。300mも上の地表面から、本坑をめがけて幅30m、最小ピッチ3mで計312孔ものボーリングを行って注入材を打ち込んだのである。全注入工事は昭和56(1981)年6月に完了するが、この間ボーリング機械が全国から集結、ピーク時には90台が稼働したという。
この時の光景が、工事誌のカラー写真ページに写っている。お見せできないのは残念だが、冬のうっすら雪化粧した地面に林のごとく整列したボーリング機械が実に異様な雰囲気を作り出している。

※第七節にてその当時の写真を公開しております。(2008/12/21追記)

この八木沢層への注入工事は、例えていうなら水をたっぷり吸ったスポンジに瞬間接着剤を突き刺して水を押し出しながら固めていくようなものである。適当な比喩かどうかは分からないが、恐らく簡単なことではないというのはお分かりいただけると思う。

四方木工区付近の八木沢層は水圧が非常に高かったこともあり、高山工区付近に比べて注入材の浸透率が悪く難航していた。そのため、さらに注入区間を短くしないと完成時期がさらにずれ込む恐れがあった。

ついに最後の手段が講じられた。公団総裁仁杉の苦渋の決断であった。



その決断とは、施工済の区間の影響を最小限に抑えながらルートをさらに東(旧本坑位置より162.33m)に振って注入ゾーンを削減するものであったが、新幹線としては規格外最小半径1500mを挿入せざるを得なくなる線形であった。これにより最高速度も160km/hに制限され、12‰の連続勾配も荷担して下り列車の足かせとなり、その後のスピードアップに大きな禍根を残すこととなった。
また、迂回した分トンネル延長が伸びたため、108k120m60=108k100m00108k476m67=108k470m35とする重複キロが生じた。新幹線は基本的に新線建設なので、工事中にキロ程が前後しても後で振り直される。しかし中山トンネルの場合は開業直前のルート変更であり、振り直す余裕が無かったものと思われる。私が第一節の冒頭に位置:大宮起点101k879−116k709(+27)と記したのはこのためで、トンネルの本当の長さは14,857mだがキロ程は14,830mしかないのである。
ここを通過される際は、表に出ることのない「27mに思いを馳せて頂きたい。

注入区間を減らしたとはいえ、四方木工区も計198mの長さがあり、ボーリングの数は331孔高山工区と併せて643孔に達し、地山を補強するというよりは中身をそっくり置き換えてしまうに等しかった。
この間隣接する小野上南・中山工区工区延長により応援。昭和57(1982)年3月31日四方木・高山両工区の完成をもって中山トンネル十年の苦闘にピリオドを打った。

 以下の文章は、第一節冒頭と同様に誤りであることが判明いたしました。謹んでお詫び申し上げます。
 注入工事や水没復旧に巨額を要し、気がつけばわずか15km約8500億円を投じていた。何とあの青函トンネルさえも凌駕する額であった(青函53.85kmの本体工事は約7000億円)。
 次の通り訂正いたします。
 注入工事水没復旧に巨額を要し、気がつけばわずか15km約1250億円を投じていた。トンネル全長あたりの単価では、何とあの青函トンネルさえも凌駕する額であった(平均839万円/m、最悪は四方木工区3467万円/m。他方、青函53.85kmの工事費は約4145億円平均770万円/m、最悪は竜飛工区1250万円/m)。
 ※第七節に出典および詳細を記しておきます。

八木沢層が水と引き替えに吸い込んでいったお金である。

救いの手
では、その他の工区はどうだったのだろう。
小野上南工区は、トンネルの大宮方坑口が崖上であり、すぐ下を国道353号線、および吾妻川に阻まれた狭隘な地形であった。このため横坑188mによって本線101k860mに取り付くこととし、工事が開始された。
工事は1800mまでは順調であった。ところが103k500m付近で八木沢層が現れると8t/分の湧水が13t/分に増加し、通常の施工法での掘削は不能となった。
坑口からの片押し施工の有利な点は、湧水を排出するのが楽なことである。あまつさえ中山トンネル上りの片勾配であり、然流下することができるのである。
そこで八木沢層の突破に向けて、本坑の左右18mの離れで水抜坑を先進させることになった。この水抜工法新丹那トンネ清水トンネルの経験を生かしたものである。
水抜坑はボーリングや工事進捗の具合によって左に右に随時移動した。途中多量湧水土砂崩壊などがあったものの大事には至らず、本坑の施工はほぼ水が抜けきった状態で施工され、105k100mまで進んだ。
地質が八木沢層から綾戸安山岩に変わったこの地点は、あの小野上北斜坑が目指すはずの場所であった。小野上北工は当時既に廃止されていたが、表流水の枯渇対策と工事経過に伴う湧水量の変化を調査するため、斜坑は残されていた。

綾戸安山岩はそれ自身は堅固だが、クラックが多い。八木沢層との接触地帯でこの工区の最難関を迎える。
安山岩にボーリングが入った昭和52(1977)年9月頃から、小野上北斜坑周辺の地下水位は低下を始めていた。昭和54(1979)年4月2日左水抜坑の切羽が105k693mに達するとクラックから猛烈な勢いの湧水(18kgf/cm^2)が発生し、水抜坑はまるで川のようになった。最大で86t/分にも達するこの湧水に対処するため、吾妻川橋梁上から直接吾妻川へ放流す配管を整備した。その一方、それまで5t/分あった小野上北斜坑の湧水はこれを境に完全に枯渇する。
綾戸安山岩から水を抜いたため各地で地盤沈下や陥没が生じ、周辺に掘削した渇水対策用の井戸も軒並み枯渇した。四方木工区水没事故の直後だっただけに、この多量の湧水には工事関係者も動揺を隠せず、また周辺住民も不安や不満を一層募らせることとなった。
その後、水抜坑からの湧水は昭和54年7月15日を境に急激に減少し、本坑の掘削は平穏に進められた。昭和53(1978)年11月からの総排水量は実に575万tにのぼった。
旧小野上北工区地下付近の20万m^3に及ぶ空洞の直下を掘進する際は大事故発生が心配されたが、本坑位置は幸い不透水層の泥岩であったため問題は生じなかった。
昭和55(1980)年12月、水位調査の役割を終えた小野上北斜坑閉塞された。
結局、大量湧水はあったものの目立った事故などはなく、工事は終了した。

昭和56(1981)年7月27日四方木工区迂回坑右水抜坑貫通を果たし、四方木・高山両工区の安全がようやく確保されることとなった。二度の出水で滅入っていた工事関係者にとっては福音であり、その後の突貫工事を精神面でも支えたのである。
日本初の栄誉

中山トンネルの歴史は、苦渋と挫折が全てではなかった。

立坑を持つもう一つの工区、中山工区は、湧水に苦しめられた前の2工区とは全く様相を異にした。
立坑自体の掘削は順調に進められた。この付近は本宿累層という地層が占めており、湧水はほとんど無かった。
しかし、本坑の掘削に入ると困難が待ち受けていた。この本宿累層膨圧地質だったのである。時には導坑がふさがってしまうほどの盤ぶくれや変状が多発し、種々の方法で押さえ込みを試みたが成功しなかった。
昭和51(1976)年5月NATM(New Austrian Tunneling Method;新オーストリアトンネル工法、通称ナトム)の技術を用いるにあたり、まず変状区間にロックボルトを打ち込む地盤一体化の試験を行った。結果は非常に良好であったが、吹付コンクリートは坑内の換気上問題があったため見送られた。翌昭和52(1977)年3月、既に51年7月31日竣工していた名胡桃工区側からタイヤ工法で終点方の迎え掘りを実施することになり、国内で初めて本格的にNATMの運用を開始した。工程は順調に進み、昭和54(1979)年3月31日までに当初の工区割であった2800mの施工が完了した。これに前後して四方木・高山工区の事故の応援のため、工区割が数度にわたって変更され、最終的に4600mという長大工区となった。
NATMの導入効果は顕著なものがあり、追加発注された区間、および四方木・高山工区の未掘削区間に適用され、工期の短縮に貢献した。本格運用開始後の昭和53(1978)年5月土木学会賞を受賞している。
あらすじにしては長くなり過ぎた感がありますが、これでも相当に端折っています。
ルート変更が二度、水没事故が三度という事実は、ネット上を見回す限りあまり周知されていないようです。私も工事誌を読むまで知らず、これまでの認識がいい加減だったことに恥じ入りました。
これ以外にも、相当量の水を抜いたことに対する補償問題などがありますが、それは実踏調査の時に譲ることにしましょう。
次回は地図と空中写真から中山トンネルに迫ります。


第四節 事前調査 へ続く

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第一節 史上最悪の山 へ
第二節 災禍の正面突破 へ

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