Treasure Reports
第二編 上越新幹線(大宮−新潟)
第五章 中山トンネル

第二節 災禍の正面突破

これから記すことは、承前の「上越新幹線工事誌 大宮・水上間」の内容を元にしたものである。
さすがに本を丸ごと引用するわけにはいかないので、それなりに手心を加えてある。もし、筆者の主観入り混じることなしに中山トンネルと向き合いたいという方は、工事誌を直に読まれた方がいい(全く同じ図は描けないし、写真もお見せできないので…)。
それでは、しばしの間の長文をご辛抱いただきたい。

工事誌の中山トンネルに割かれた分量は、p.668p.824の計157ページに及ぶ。実は、東北新幹線と違い工事主体は国鉄ではなく鉄建公団であり、中身を端折りがちな東北新幹線工事誌に比較するとさすが土木の専門書を思わせる詳細な記述ぶりである。が、それを差し引いても10ページに満たない福島トンネルからすれば「ただごとではない」ものを感じさせる。

さて、中山トンネル1972(昭和47)年2月に工事を着手する。
高崎−水上間には大宮方から榛名・中山・黒岩・月夜野・第一湯原・第二湯原6つのトンネルがあるが、その先陣を切ったのである。

つまり、最初に手掛けたトンネルが、一番最後になってしまったのだ。

主たる原因は、昭和46年に実施された地質調査にあったと言うことができる。最終的に現場の地層は非常に複雑なものであることが判明したが、この事前調査では全長14.8kmに対して12孔しか実施されず(p.673表4-2-1)、またその結果もコア採取率が悪かったため大まかな地質しか判明しなかった。その時に見落とした透水層(軽石や礫、砂などで構成される、水を通しやすい地層)が、後になって工事に大きな打撃をもたらすことになるのである。



この図は、完成時(昭和57年3月)の中山トンネル縦断面図(参考:p.668図4-1-2)である。
まず何といっても目を引くのは、超大深度の立坑3本である。四方木(しほうぎ)立坑は何と372mにも達し、中山立坑313m高山立坑295mある。東京タワーの先端から地面を眺めるようなもので、全く想像できない世界である。
(スカイツリーの展望台からであれば、その深さを疑似体験できるだろうか…)
もう一つ気づいて頂きたいことがある。
キロ程の上に書いたのはトンネルの工区割なのだが、5つの割り方が妙にいびつである。実際、小野上南4720m四方木1070m高山2827m中山4600m名胡桃(なぐるみ)1640m(p.670表4-1-1)となっていて一定しない。
そして、さらにもう一つ。小野上南工区の「」の意味するもの、それは…

消えた工区

あくまで片手間に借りたはずの工事誌に私の目は釘付けとなった。



当初、工事は上図の通り6工区に分割されていた(参考:p.674図4-2-3)。残念ながら計画当初の各工区の全長については具体的な記述がないものの、2番目に「小野上北工区」(L=1670m)なるものが存在していたことが分かった。

小野上北工区は、小野上北斜坑810mをもって本坑104k900mに取り付く予定で、昭和48(1973)年3月1日に工事が開始された。
ところが、わずか3年8ヶ月後昭和51(1976)年11月18日廃止される。

この工区に一体何が起こったのか。工事誌には、次のような経緯が記されている。

p.710記事、およびp.712図4-4-37より−

昭和49年9月15日
斜坑切羽湧水3t/分掘削中止 切羽位置454.8m、坑口揚水8t/分

9月18〜21日
切羽より水抜ボーリングを5孔施工。

9月22〜23日
切羽より700m離れた関口沢自噴水(小野上村村営水道源−湧水量2.1t/分)が枯渇
切羽掘削再開。

9月26日
水抜孔からの湧水5t/分。切羽457.8mで再度掘削中止。切羽は自立。

9月27日 0時20分
湧水により矢板破損。鏡止め作業の準備開始。

0時53分
切羽左付近より崩壊突出水

1時15分
異常突出水が斜坑口をオーバーフローし八木沢に流出。10分間で3400t流出。坑内流出土砂約7000m^3

1時25分
坑口のオーバーフロー止まり水位低下始まる。

7時30分
坑内水位、斜坑口より200m地点まで下がる。200m地点以降は流出土砂のため測定できず。

15時00分
坑内水位、坑口より168m地点まで上がる。

9月29日
坑内水位、坑口より118m地点まで上がる。

9月30日
坑内水位の上昇速度0.5m/時。坑口より110m地点より強制揚水(排水)開始。

10月1日
強制揚水量2.4t/分


背筋が凍り付くような事実を、工事誌はさらりと書き綴っている。が、9月27日の分単位の報告は、その時現場に走った戦慄と緊張を如実に物語っている。
5t/分の湧水とは、一般家庭のバスタブが大きくてせいぜい200Lと仮定すると、その25倍。すなわち1分間にバスタブ25杯分の水が出てくることに等しい。これが340t/分などといったら1700杯分である。それが10分も続いたのだ。
流出土砂7000立方メートルというのも恐ろしい量だ。砂の比重を2.5とすると17500tになり、何と積荷を満載した状態のコンテナ貨車350両分に匹敵する。

この異常出水事故により、小野上北工区11ヶ月間の機能停止に陥る。
坑内の土砂撤去の他、精査していなかった斜坑周辺の地質調査(ボーリング20孔)が実施されるに及び、この斜坑の向かう先にとんでもない物の存在が判明した。

空洞、である。
20万立方メートルという地下水を蓄えた、巨大な空洞(大滞水塊)があったのである。

事故の原因は、当初は斜坑掘削に伴って地下水脈が移動したことによるものと思われていたが、結局その大滞水塊の水圧が地山強度を超えていたためであることが分かった。これ以上斜坑を掘り進むことは、大滞水塊をおのずと決壊させに行くことを意味する。
しかし、当時の上層部が出した答えは「進め」であった。
小野上北工区は、どうしても掘り進まねばならなかった。というのは、隣接する小野上南工区の工事が難航していたためである。
南工区の進捗を考えると、北工区の斜坑を掘り進んだ方が3〜8ヶ月早く本坑掘削に取り掛かれるという算段であった。
もちろんそのまま前進するのは不可能である。そこで昭和50(1975)年9月大滞水塊が及ばないように現斜坑の188m地点から方角を20度西向きにずらし、勾配18度(当時の一般的な斜坑は1/4勾配=250‰=14.63度)で本坑取付を104k660mとする「新斜坑ルート」を決定した。他にはほとんど例のない、工事途中での斜坑のルート変更である(参考:p.714図4-4-39)。



昭和50(1975)年11月より、新斜坑ルートの掘削が開始された。
しかし、十分に検討を重ねたはずの新ルートは、さらに困難を増していくことになる。昭和51(1976)年6月になると、旧斜坑の7t/あった湧水が2t/分に減少する一方、その差5t/分は新斜坑に回ってしまう。翌7月10日には分岐点から187.5mまで掘削を進めたものの、新斜坑の湧水量は増すばかりで、その上次のような現象を呈してきたと工事誌には記されている。
p.711−
(1) 地層の変化が激しく、切羽が湧水により部分的に流出し自立が困難になってきた。
(2) 旧斜坑の湧水が大部分新斜坑に移ってきた。このことは水みちが大滞水塊に通じているためと想定された。
(3) チェックボーリング孔からの湧水が時折濁ることがある。
(4) 一時山鳴りすることがあった。
(5) 前記水平ボーリングでコアー採取が困難だった区間(筆者注:昭和51年2月に新斜坑120m地点から長尺ボーリング330mを実施)に切羽が入ったところ、7月3日湧水に伴う切羽の土砂崩壊があり、切羽の進行が停止している。

以上の状況から、このままの状態で掘さく作業を進めることは危険であるため7月5日掘さくを中止した。

二度目の挑戦もことごとく阻まれてしまった。
平面的にも立体的にも大滞水塊を避けたつもりであったが、新斜坑のルートさえまだその影響範囲内にあることが分かった。
そして、決断の時がやってくる。
p.713−
(略)新斜坑のルートで掘さくを続けるためには、切羽固結のための注入作業も実施しなければならず、坑底到達までには13〜17ヶ月程度の工期を要すると考えられ、斜坑底に到達後、本坑掘さくのための坑底設備の設置に約7ヶ月を要し、本坑掘さく開始時期は昭和50年9月における新斜坑ルート決定時の昭和52年11月から5〜9ヶ月遅れることになる。
 一方隣接の小野上南工区月進50mと進行実績も向上し、昭和51年7月10日時点で導坑先端から工区境まで510m残す地点にきており、(略)10〜12ヶ月工区境に到達することになり、新斜坑が当初到達すると想定した時よりも7〜14ヶ月早着するものと推定された。

つまり、小野上南工区の進行速度が上がった今、小野上北工区の工事を進めることで逆に工程が遅れてしまうという試算が出てしまったのである。

昭和51年11月18日、遂に斜坑掘削を断念し業者契約を解除、小野上北工区は消滅する


だが、この異常出水と小野上北工区の廃止は、実は苦難の序章に過ぎなかった。
その後、ここまでの工期算定を全くの無意味に帰すほどの大惨事が起ころうとは、誰一人予想だにしなかった。
間一髪の生還

中山トンネルで最も早く着手されたのが、最も深い立坑(L=372m)を掘らねばならない四方木(しほうぎ)工区であった。
昭和47(1972)年2月8日に開始されるも、未固結地層と被圧地下水に当初から悩まされ、薬液注入を中心とする地盤改良を行いながら、立坑の施工だけで約4年6ヶ月を要した。立坑の完成は昭和51(1976)年8月のことである。
その後本坑工事に入ったが、未固結透水層八木沢層(Yg)が本坑の要所に絡んでくることが判明したため、切羽の増設と注入工事の事前施工の目的で長大な迂回坑が計画された。



この図は工事誌p.720およびp.808を参考に作図したものである。計画段階のものと実際に掘られたものをここでは区別していない。しかも立坑の周辺を基準に描いたら全体が入らなくなってしまった。それほどの規模である。
当初の迂回範囲は、立坑より大宮方(図左方)が本線との最大離れ140mで、本線106k400m付近に戻ることになっていた。新潟方は100m離し、107k270m付近に到達する予定であった。このルートは先述の八木沢層を避け、本線右側に分布する硬岩部を掘進するためのものであったが、八木沢層の入り込みが予想外に大きいことが分かり、大宮方・新潟方ともに本線よりさらに離して遠巻きさせることになった。
注入基地は、本坑と新潟方迂回坑の本線右40mの位置に設けることにした(図中、Sの字にうねった先の107k付近の場所である)。

こうして四方木工区は、「急がば回れ」のごとく大規模な迂回と注入基地の準備を行い、万全の体制で本坑工事に臨むはずであった。
しかし、唐突に事態は急変する。それは注入基地295m277mまで掘進完了し、まさに注入を始めようとした時だった。

p.808,809本文および表4-11-1、4-11-2、4-11-3より−

昭和54年2月21日
注入基地掘削完了。湧水は滴水程度。

2月26日
切羽の鏡止め終了。

3月16日
湧水 約0.1t/分(清水) 支保工の補強作業および増し枠支保工の施工に着手。

3月17日 21時
湧水 約2t/分(清水) 支保工には異常なし。覆工を行うことを決定し準備作業に着手。

3月18日 覆工作業の準備完了。

13時30分
注入基地入口付近にバルクヘッド(湧水や土砂崩落を食い止めるための隔壁)構築完了(電車1台、空トロ7両、土のう)
濁水に変化した場合を想定し、土砂の静止沈殿を計り、立坑下揚ポンプを防護する。

17時
湧水量 変化なし(2t/分、清水)

21時30分
湧水量 変化なし(2t/分、清水)

21時40分
湧水量 約80t/分(濁水)

22時
出水箇所への接近不可能。作業員を非常招集。

22時15分
防水作業のため40人入坑。迂回第一変電所およびポンプ室の防護。

23時
第一変電所付近の止水壁を越流。止水壁の再構築ならびに坑内湧水量の低減措置。

23時45分
退避を指令51人全員ケージに塔上ケージ運転不能のため復旧作業開始

3月19日 0時25分
ケージ運転

8時35分
立坑内水位-125m(立坑坑底より約250m湛水)

一夜にして、四方木工区完全に水没した。湛水量は約35000tに及ぶ。



この時の現場の緊迫した状況を一部始終描いたノンフィクションがある。萩原良彦「上越新幹線・トンネルと豪雪に挑む男たち」(1983.2 新潮社)である。立坑エレベータ故障の部分を要約すると、

ケージの動力源となる電源設備は全て立坑の坑底にあり、水没してしまったため運転不能になった。急遽電源を地上側に切り替えることになったが、電力の担当者は麓の沼田におり、連絡を受けて急行した。現場への道はヘアピンの続く悪路だったが、そこをかなりの速度で飛ばした。しかし運悪くパトカーに見つかって追跡を受ける。捕まったらお終いだとばかりに振り切って現場に到着、すぐさま復旧に取りかかった。
一方ケージに取り残された坑夫たちは、みるみる増してくる水嵩に戦々恐々としていた。体の半分が水に浸かるほどになり、遂にケージの中では危険だということで屋根の上に避難した。迫り来る恐怖に泣き出す者、辞世を言い出す者まで現れた。
やっと復旧が完了しケージが動き出した。助け出された坑夫たちはその場にへたり込み、放心する。
追尾していた警察官は、もし自分たちが確実に職務を遂行した場合の51人の末路を想像し、背筋を凍らせた。

まさに危機一髪、犠牲者が出なかったのは奇跡的であった。
事故の原因は、切羽を277mで止めた際の調査ボーリングで八木沢層との被りを4m確保していたが、一部に脆い部分があり、そこが八木沢層に滞水していた20kgf/cm^2(1960kPa=19.34気圧)という強大な水圧に耐えられなかったためと推定された。

この後、出水した注入基地の真上から360m坑外注入を実施し、5896m^3に及ぶ注入材の充填をもって出水を止めることに成功した。水抜きを終えたのは、事故から約半年後の昭和54(1979)年9月17日であった。



中山トンネルと男達の戦いは、もはや泥仕合の様相を呈してきていた。それでもなお持てる技術と意地を賭けて、正面突破の試みは続いた。
…しかし、無情にも、悪魔は三度目の牙をむく。そしてそれこそが本坑の大幅なルート変更を招き、160km/hの減速運転を余儀なくされ、開業をずれ込ませた最大の原因となるのである。

以下、次回。昔話はまだまだ続きます。


第三節 挫折の曲線 へ続く

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第一節 史上最悪の山 へ


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