Treasure Reports
第二編 上越新幹線(大宮−新潟)
第五章 中山トンネル

第四節 事前調査

トンネルは遠きにありて想うもの

数々の事実に衝撃を受け、これは絶対に行かなければならないと決心した。しかし、福島から現地へ行くには、佐野藤岡まで高速を南下し両毛線沿いに西進、前橋を経由するという方法しかない。おいそれと行ける距離ではないのだ。
これまでに都合2回現地を訪れており、一度目は榛名T大清水T、二度目は榛名T魚沼Tまでを一気に調査する方針であった。簡単に行けないので詰め込みの強行軍だが致し方ない。効率よく回るためにも、事前の調査は欠かせないのだった。
それでも道に迷ったり、意外と遠かったり、見つけられなかったり、その場で黄昏れたりして時間は浪費されていったのだが…。

中山トンネルの工事期間は昭和47(1972)年からの10年間。国土交通省の空中写真は昭和50(1975)〜52(1977)年なので、工事の様子はある程度把握できるはずである。

南坑口付近
まずはトンネルの大宮方から見ていくことにしよう。

榛名トンネルを出た線路は、ほどなくして吾妻川橋梁を渡る。吾妻川とその河岸段丘を一気に跨ぐこの橋は大半がノーマルな高架橋だが、トンネルに最も近い河床部分は一本の橋脚で非常に長いスパンを支える構造である。この写真が撮られた時点ではまだ橋脚のみで、これから桁載せが始まるといったところであろうか。

橋を渡り終えるとすぐに中山トンネルへ突っ込む。承前の通り国道の直上であり、普通に取り付くことはできない。
画面の左上にあるのが小野上南工区の設備であり、少し右に行ったあたりに横坑口があるものと思われる。

ちなみに工事誌には、吾妻線金島駅から専用側線を分岐し、スラブ床板などを運び込んだとあり、その路盤の工事が行われているようにも見える。




















小野上北斜坑付近
幸運にも、空中写真の撮影時期はまだ小野上北工区が存在していた頃である。その様子がはっきりと写っていた。

昭和50(1975)年度の撮影であることから、大出水の後片付けが終わって新斜坑ルートの検討に入ったあたりではないかと考えられる。斜坑口前の三角形状の土地は流出土砂によって形成されたのだろうか。別の期間に撮影された同場所(この写真より以前)を見ると少し赤茶けていて、可能性は否定できない。
あふれた水が流れていった木沢は、木々に囲まれてほとんどラインが見えない。その上、その後の工事の影響でほとんど涸れてしまっている。

坑外設備の前を通ってヘアピンとなり上に向かうのが、一連の工事で大活躍する県道渋川・下新田線である。現在でも急坂でカーブの多い道路だが、ある程度改良されて通りやすくなっている。工事に伴って大型車が通行することから、道路改良の一端はトンネルにもあると言えるだろう。
そのヘアピンカーブの所は、航空写真では窺い知れないが相当に高低差がつく場所であり、斜坑口よりもその左手の丘にある住居群は100mほどは高いのではないだろうか。

そして道路の周辺にやたら白い斑点が目に付く。斜坑のラインを読むように木がない部分もある。恐らく地質調査のために行われたボーリング、および深井戸(ディープウェル)掘削の痕跡と推察される。
初めから綿密な調査を行っていれば、と思わずにはいられない。
四方木立坑付近
続いて四方木工区の写真である。
四方木立坑の工事は非常に難航していたため、この時点ではまだ立坑も出来上がっていない。当然その後の難工事、地中の大迂回、そして二度の異常出水に見舞われようとは全く知る由もない頃の様子である。表面上は緑豊かで穏やかな大地にしか見えないのだが…。

坑口の場所が比較的容易に推定できる斜坑と違って、立坑の位置は確認しにくい。福島Tの桑原立坑のように巨大な角穴が開いていればいいが、上越の場合6m前後の筒型である。

この付近の道路は、当時は狭く至る所で屈曲していたようだが、現在は解説に示す通りの改良が加えられている。電気技師がパトカーに追いかけられつつ必死で飛ばした道も今は昔、である。

たまたま写真を切った下端の位置がほぼ本坑新旧ルートの分岐点になるようだ。もっとも地形図からアタリを付けただけで数字的な裏付けはないのでご了承いただきたい。
立坑とその前後の100m少しだけ掘削された旧本坑は全く無駄になってしまったが、今その内部はどうなっているのだろうか。

斜めに禿げ上がった2本のラインはトンネルとは全然関係のない、特高圧送電線ルートの刈り取りである。この高圧線の鉄塔工事も洒落にならない大変さではないかといつも思うのだが、ふと気がついたときには既に縦横無尽に出来上がっていたりするから恐れ入る。


高山立坑付近
高山工区は、峠を一つ越えて本宿集落へ下る途中にある。
これも写真では分かりにくいがちょっと小高い丘の上といった感じで、何でこんな所を選んだのか不思議に感じるような場所である。まぁ、立坑の都合上本坑に対して融通は利きにくいのだろうが…。

高山立坑の掘削は昭和51(1976)年1月に完了しているので、この写真はその直前といったところだろうか。

左下の建物はトンネルとは特に関係がないのだが、この工場の敷地が土捨場として貸し出されている。建物左上の赤茶けた土は立坑掘削時の物か?






























中山立坑付近
本宿を過ぎて十二平の扇状地を上がっていくとその末端に山工区がある。この場所も何というかギリギリな感じである。

中山立坑の工事は至って順調で、昭和49(1974)年5月には立坑の諸設備の設置も完了している。従って既に本坑掘削を開始した場面と思われる。
他の工区と違って明確なズリ山ができていることからも進捗の速さが窺える。が、中山工区が本領を発揮するのはNATMに切り替えてからで、後から考えると立坑を掘って途中から始めた効果はあまりなかったのではないかと思う。

この中山工区に通じる道路は、よく調べてはいないが古い街道筋であったものと思われる。現在は赤根トンネルを通る快適な道路だが、それ以前はヘアピンカーブの続く悪路であったようだ(航空写真の年代にはまだトンネルはなかった模様)。そのさらに1つ前の世代が恐らくこの道路であろう。

実は新幹線は最短距離で通るために、意外と旧街道や旧宿場町のルートを踏む場合がある(但し高架だったり地中だったりはするが)。歴史は繰り返す、ということなのだろうか。













北坑口付近
最後は北坑口、名胡桃工区の様子である。

最も速く竣工した工区であり、和51(1976)年度には掘削を完了してしまう。時期的には最終段階とみていいだろう。

坑口から数百メートルは地上に露出する格好のようだ。

最も速く竣工といっても、東北・上越新幹線はオイルショックがなければ昭和53(1978)年度には開通している手はずであり、その前提としてトンネル群の51年度完成は当然と思われていたのである。
最初から難工事を想定していた大清水トンネルと違って甘く見た節があるのではないだろうか。もっとも、後世の人間だからこそできる批判であることは確かである。



























このように、航空写真によって大まかな位置関係や状況を見ることができた。
しかし福島トンネルの項でも述べたように、三十数年後の現在もこの状態にあることはまず考えられない。特に廃止された小野上北斜坑は封印されたことが記されており、また中山立坑も埋め戻し中の写真が掲載されている。従って探索は相当難航するものと予想された。期待と不安が交錯する中、取材は敢行された。

次回、現地で尋常ならざる光景に遭遇します。



第五節 現地を見る(1) へ続く

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