東京起点241k420m付近
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キロ程で言うなという感じだが、どの辺のことか。
左はおなじみの航空写真である。
石合斜坑および坑外設備が写真の上辺中央やや右に見えるのはお分かりだろうか。
さて、問題の増設立坑は…。
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そう、ここだ。ここなのだ。
上の写真で、石合斜坑のほぼ真南のこの場所が、東京起点241k420mと推定される場所である。
他と比べると簡素な作りで、いかにも急拵えの雰囲気がある。
実は私はこの場所を当初から気に掛けていたのだが、新幹線の構造物であるという証拠が今まで見つからず、もしかするとただの圃場整備関係の工事ではないかと危惧していたのだ。
さて、見つかったはいいが、現在何か残っている保証はあるのだろうか?
あらゆる地図を眺めてもこの場所には現在田圃しか描かれていない。
ところが唯一、うおっちずの1/25000地形図に建物記号が描いてあるのを発見した。
これは見に行かなくてはなるまい。 |
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結論から言うと、
あったのは田圃だった。
そう、それはあまりに周辺との調和が取れすぎた1つの田圃に過ぎなかったのだ。
左の写真で中央に横切る畦の上の段が立坑のあった場所である。信じられますか? |
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田圃の西の端に来てみた。
うん、何もない。
鉄骨のテの字でも転がってくれたら、と思わずにはいられないが、くまなく探してみてあきらめた。
やっぱり、「ない」のだ。 |
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立坑のあった田圃(中央段上)を、福島トンネルの推定本坑の真上より盛岡方に望む。
唯一当時の面影をしのばせるのがこの田圃の大きさである。
この場所だけ他の区画と食い違っているのだ。
トンネルの完成から30年も経れば、このように影も形も残らずに元通りになるのかも知れない。
しかし、この一見何の変哲もない田圃をちょっとめくってみると、他とは明らかに違うトンネル構造物が出土したりするのだろうか、などと考えると妙にドキドキするのは自分だけだろうか。
いわば古代遺跡の発掘調査のようなものだ。 |
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上の写真の反対側、東京方を望む。
この川は水原川(みずはらがわ)といい、安達太良山を源流とする阿武隈川の支流の一つである。
この川の中央が福島市と旧安達町との境になっている。 |
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そして航空写真に写るのとほぼ同位置にあるこの橋は、昭和60年に架け替えられたものである。よく見ると航空写真の橋より一回り広いのだ。 |
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この近辺、昔はちょっとした川釣りくらいしか用がなかったのだが、十年前から白鳥が飛来しはじめ、今はごらんの通り700羽以上が来るようになり、ちょっとした名所となっている。
福島市や猪苗代湖の白鳥より絶対数は少ないのだが、相対的にカモより白鳥の方が多いため非常に見応えがある。
ちなみにこの看板、白鳥が全員里帰りしてしまうと「里帰り中」になるが、いる間は全期間での最大数なのだそうだ。
従ってこの写真を撮影した4月下旬の時点でまだ700羽もいたわけではない。 |
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それでも、猪苗代湖の連中が2月の下旬には旅立ったのと比べればこいつらは寝ぼけ気味だ。記録的な暖冬が彼らの計画を狂わせたのだろうか。
この時は一度に数羽ずつが編隊を組んで周回し、練習飛行していた。顔が黒い、若い鳥が多い。
面白いことに、橋を挟んだ東側に大群がいるのだが、橋の西側には1羽もいないのだ。
ひょっとして地中の新幹線の振動の影響か…?まさか。 |
さて、この消えてしまった立坑については、意外な証言者が身近にいた。
それは父方の実家の主、祖父の従兄弟で、この近辺に住んでいる(2010年、この方も鬼籍に入られた)。
何でも、田圃に大穴を開けてトンネルを掘り始まったら、一帯の井戸が全滅してしまったのだそうだ。
実際、ここに限らずトンネルより東側の地区では広範囲にわたって井戸涸れが起きた。私の家も場所的に例外ではなかったはずなのだが、何故か数メートルしか離れていない親戚の家では涸れ、家の井戸は助かっている。水脈が違ったのだろうか。
渇水とその対策に絡む数々の問題は、今後他のトンネルの調査でも幾度となく出くわすことになる。
次回はいよいよ福島トンネル最終回、もう一つの立坑と調査の今後についてです。 |