Treasure Reports
第一編 東北新幹線(東京−盛岡)
第一章 福島トンネル

第四節 真実との対面

まさかあったとは
ネット上を探してもまず見つからない福島トンネルに関する情報。
2007年6月現在、あのWikipediaにすら福島トンネルは載っていない。
そんな「情報村八分」感を抱きつつ、ふと基本的な調べ方の一つを全く実行していないことに気づいた。

そう。図書館の書誌検索である。

今まで思いつかなかったことに、我ながらバカではないかと思った。
不確かな推測に振り回されて無駄足を踏むよりはよっぽど手堅く、賢い。
しかし自己弁護するならば、いわゆるOPAC(オンライン書誌検索システム)が普及し始まったのはごく最近(といっても10年来にはなるか)のことで、学生時代は地区の図書館はおろか学校の図書室にさえ滅多に行かないほどの図書館嫌いだったのだ。読書そのものが嫌いだったのではなく、借りて返すシステムが嫌(←ずぼらだから)、あまつさえ期間が束縛されるのが嫌で、読みたい本は全部買い揃えていたのだった。

国鉄の建設事業に関する資料があるとはあまり期待しなかったが、とりあえず地元の福島県立図書館で検索してみた。
県内の全図書館の横断検索もできるのか・・・いい時代になったねぇ、と図書館がらみの浦島太郎っぷりを自嘲しつつ実行してみると、

・・・あった

「東北新幹線工事誌 黒川−有壁間」

早速、図書館へ急いだ。

アラこんな所に解答が
早速図書館で件の本を借り、いそいそと福島トンネルのページをめくった。
そして読み始まるやいなや、冒頭の序文の段階で私がずっと抱えていた疑問はあっさり氷解してしまったのだった。

第4節 福島トンネル p423〜

1.概要
福島トンネルは福島県安達郡安達町の東京起点236k235mの地点から、同町東部および福島市南部の丘陵地帯を南北に縦貫
し、福島市平石の247k940mに至る、全長11k705mの山岳トンネルである。
このトンネルは当初の施工時は桑原立坑25mを挟み、起点側3k590mを安達トンネル終点側8k090mを福島トンネルと称
し、立坑部25mはトンネル延長から除外していた


えーーーーーーーーーーーーーーーー!?

つまり、
桑原立坑(新安達SSPのあの大きい穴)を境に、別々のトンネルだったというのだ。

これで当初の疑問にあった「計画時の安達トンネルの存在」の理由が分かった。
しかし何故そんな面倒なことになったのだろうか。なにせ2つのトンネルは地面の中だ。
なおも読み進めていくと、ほどなくその疑問の答えに突き当たる。


3.線路縦断を変更した経緯


ナンダッテ!?
話が唐突に核心に向かおうとしているので読む方は焦る。プロローグにクライマックスのある小説(そんなもんあるか)のようだ。
図が挟まっているが後で示すので読者の皆様も焦らないように。


この両トンネルを含む、東京起点235k360m〜248k600mの延長13k240mの区間は当初図(注略)で示す縦断で第5阿武隈川B(L=
180m)を横断し安達トンネル(L=2630m)に入る。出口で東北本線を渡り、200mで二本柳トンネル(L=170m)に入り再び明り
区間700m、この間払川(筆者注、「松川」は誤植)を渡り、福島トンネル(L=7640m)に入る計画であった
(中略)
検討の結果、図(注略)の様に縦断を変更しFL(筆者注、FrameLevel=施工基面)を最大19m下げることにより、トンネル延長は(中
略)11k705mと長くなったが、これにより明り関係の諸問題が全て解消できることとなった。


やはり、計画時は3本の独立したトンネルだったのだ。
ところが3本案では、土かぶりが薄すぎて家屋や田畑に影響し、東北本線や道路、河川との交差に支障が出る(=明り関係の諸問題)ことからトンネルの位置を下げて1本にまとめた、ということのようだ。そして正式な名前は後から決定し、工事中は計画時の名残で福島トンネルと安達トンネルに呼び分けられていた、ということである。

図を下に示す。




−いずれもp425 図2-4-3を参考に作図

それにしても、妙な縦断線形である。
山陽新幹線以後の許容最急勾配は15‰ではあるが、12‰を超える物は限定的な使用にとどまっている。もし計画通りに作られたなら福島停車の上下列車は相当気を遣うに違いない。
変更後は変更後で一定の勾配にすればいいものを、何故か階段の踊り場のごとき格好になっている。この理由について工事誌には触れられていないのが残念だ(一般的には土被りを可能な限り薄くしたほうが土工量が減らせて良いらしいのだが)。

ここまででお気づきの方もいらっしゃると思うが、安達トンネルの長さがめまぐるしく変わっているのはお分かりだろうか。
さっき3590mと書いたばかりだが、上の図では3595mであり、以前にご紹介した資料では2900mなどというものもあった。察するに、最終決定に至るまでには再三の手直しが行われたのではと思われる、

気になる記述
読み進めていく内に、トンネルの工区割りや施工方法などの詳細が見えてきた。
これまでに紹介した構造物を図に示すと、下のようになる。




普通なら、これでメデタシメデタシ、調査終了というところである。
ところがそうは問屋が卸さない。

p429−
(4) 石合工区
計画通り底導先進上半工法(筆者注:底設導坑先進上部半断面工法=最初にトンネルの底部に1本の先進導坑を掘削し、次にトンネルの上半分を掘削する工法)により施工した。(中略)進行は阻害され月進37m程度しか進まず、行程は大幅に遅延した。このため土被りの薄い区間(約20m)の241k420m付近に立坑を設けて、切羽(筆者注:掘削の最前線地点)を増設し、工程の回復を図った。


なんと、石合工区にはもう1カ所の立坑があったというのだ。
さらに驚きは続く。
計画変更により跨線橋(後座内Bo)からトンネルとなった東北本線交差部分には以下のような問題があった。

p430−
1)238k915m付近
(ア) 工法の選定
(略)在来線との交差角は16°で掘削に伴う影響範囲は120mと推定され、かつ土被りも14mと薄い


このため在来線を殺さず、かつ安全に施工できる工法の検討が求められたようだ。
そして、後座内斜坑側は交差部の東京方であるため、盛岡方からも掘り進めて補強工事をしておく必要があった。そこで、


(イ) 掘削および覆工
交差部の工期短縮のため、238k985m付近に10.9m×13.5m、深さ18mの立坑を設けた


ちょ・・・とても具体的な記述である。しかも、交差地点が238k915mだから、わずか70mしか離れていない
70sin15°≒18mだから、もの凄く在来線に近い位置を掘っていることになるのだ。
そんな場所があったのか!

上記2カ所、再調査である。

東京起点241k420m付近
キロ程で言うなという感じだが、どの辺のことか。

左はおなじみの航空写真である。
石合斜坑および坑外設備が写真の上辺中央やや右に見えるのはお分かりだろうか。

さて、問題の増設立坑は…。
そう、ここだ。ここなのだ。

上の写真で、石合斜坑のほぼ真南のこの場所が、東京起点241k420mと推定される場所である。

他と比べると簡素な作りで、いかにも急拵えの雰囲気がある。
実は私はこの場所を当初から気に掛けていたのだが、新幹線の構造物であるという証拠が今まで見つからず、もしかするとただの圃場整備関係の工事ではないかと危惧していたのだ。

さて、見つかったはいいが、現在何か残っている保証はあるのだろうか?
あらゆる地図を眺めてもこの場所には現在田圃しか描かれていない。
ところが唯一、うおっちずの1/25000地形図に建物記号が描いてあるのを発見した。
これは見に行かなくてはなるまい。
結論から言うと、
あったのは田圃だった。

そう、それはあまりに周辺との調和が取れすぎた1つの田圃に過ぎなかったのだ。
左の写真で中央に横切る畦の上の段が立坑のあった場所である。信じられますか?
田圃の西の端に来てみた。

うん、何もない。


鉄骨のテの字でも転がってくれたら、と思わずにはいられないが、くまなく探してみてあきらめた。
やっぱり、「ない」のだ。
立坑のあった田圃(中央段上)を、福島トンネルの推定本坑の真上より盛岡方に望む。

唯一当時の面影をしのばせるのがこの田圃の大きさである。
この場所だけ他の区画と食い違っているのだ。

トンネルの完成から30年も経れば、このように影も形も残らずに元通りになるのかも知れない。
しかし、この一見何の変哲もない田圃をちょっとめくってみると、他とは明らかに違うトンネル構造物が出土したりするのだろうか、などと考えると妙にドキドキするのは自分だけだろうか。
いわば古代遺跡の発掘調査のようなものだ。
上の写真の反対側、東京方を望む。
この川は水原川(みずはらがわ)といい、安達太良山を源流とする阿武隈川の支流の一つである。
この川の中央が福島市と旧安達町との境になっている。
そして航空写真に写るのとほぼ同位置にあるこの橋は、昭和60年に架け替えられたものである。よく見ると航空写真の橋より一回り広いのだ。
この近辺、昔はちょっとした川釣りくらいしか用がなかったのだが、十年前から白鳥が飛来しはじめ、今はごらんの通り700羽以上が来るようになり、ちょっとした名所となっている。

福島市や猪苗代湖の白鳥より絶対数は少ないのだが、相対的にカモより白鳥の方が多いため非常に見応えがある。

ちなみにこの看板、白鳥が全員里帰りしてしまうと「里帰り中」になるが、いる間は全期間での最大数なのだそうだ。
従ってこの写真を撮影した4月下旬の時点でまだ700羽もいたわけではない。
それでも、猪苗代湖の連中が2月の下旬には旅立ったのと比べればこいつらは寝ぼけ気味だ。記録的な暖冬が彼らの計画を狂わせたのだろうか。

この時は一度に数羽ずつが編隊を組んで周回し、練習飛行していた。顔が黒い、若い鳥が多い。

面白いことに、橋を挟んだ東側に大群がいるのだが、橋の西側には1羽もいないのだ。
ひょっとして地中の新幹線の振動の影響か…?まさか。
さて、この消えてしまった立坑については、意外な証言者が身近にいた。
それは父方の実家の主、祖父の従兄弟で、この近辺に住んでいる(2010年、この方も鬼籍に入られた)。
何でも、田圃に大穴を開けてトンネルを掘り始まったら、一帯の井戸が全滅してしまったのだそうだ。
実際、ここに限らずトンネルより東側の地区では広範囲にわたって井戸涸れが起きた。私の家も場所的に例外ではなかったはずなのだが、何故か数メートルしか離れていない親戚の家では涸れ、家の井戸は助かっている。水脈が違ったのだろうか。
渇水とその対策に絡む数々の問題は、今後他のトンネルの調査でも幾度となく出くわすことになる。

次回はいよいよ福島トンネル最終回、もう一つの立坑と調査の今後についてです。


最終節 全てを見たい へ続く

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