書かねばならんことが多すぎる
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毎度おなじみの線路断面図(参考:工事誌p.157図3-6-28)であるが、いつにも増して文字の量が多い。
このトンネルの特異な点でよく知られているのが、断面の種類の多さである。儀明信号場とほくほく大島駅の拡張用に与えられた複線断面はともかくとして、中央付近には円形や卵形という、山岳トンネルではあまり見ない断面が存在している。
円形や卵形の断面は外圧に対して強度が高く、従来の馬蹄形に比べて変形しにくいのが利点である。円形シールドマシンを用いれば自然にそういう形にはなるのだが、この場所でシールド工法を使ったというわけではない。また、難工事の先例として存在する青函も中山も、軟弱な土質と大量の湧水に悩まされながら施工したにも関わらず、円形や卵形を採用したわけではなかった。
では、鍋立山トンネルは、一体何に耐えねばならなかったのだろう。
特に、図に示す中工区その6工事の区間のカオスっぷりは後ほどたっぷり説明しなければならない。
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工事経過
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例によって、工事誌からその顛末をひもといてみよう。(p.160〜)
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工事は、昭和48年12月に東・中・西の3工区に分けて発注された。(東)工区は当初の工程でしゅん功したものの、トンネル中央部の(西)工区の後半と(中)工区の施工は、膨張性地山と可燃性ガスの湧出に苦しめられた。
昭和55年3月工事予算の凍結に伴い新規発注工事は停止となった。この時の未掘削区間はトンネル全長9116.5mのうちの645mであった。
工事の再開は昭和60年8月約3年半の空白を持って再着手された。この、未掘削区間645mの(中)工区その6工事は、極度の難航を強
いられ我が国トンネル史上未曾有の施工困難を極めた工事となった。昭和48年12月の着手以来19年の歳月を経て平成4年10月漸く導
坑を貫通させ、7年3月に全掘削を完了した。
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「我が国トンネル史上未曾有の困難」−恐らく編者的に形容しうる最大難度である。何せ「未曾有」である。時代は既に平成になり、中山等の難工事も克服し、百戦錬磨のはずの人々でさえ、未だ経験したことがないと言っているのだ。ただ事ではない。
詳しくは後述するが、NATMという特効薬さえも全く通用しない相手だったのだ。
記事にある通り、東工区と西工区の大半は比較的順調に進められた。
東工区は1973(昭和48)年12月7日着手、1978(昭和53)年8月28日竣工。西工区は1973(昭和48)年12月17日着手、1979(昭和54)年3月31日竣工(その3工事)となっている。難しいところといえば、東工区で若干の湧水をみたほかは、西工区の中間および終端付近で多量のガス噴出があった程度である。
ところが中工区は出だしから絶不調となった。1974(昭和49)年8月から、本坑34k250m(現在の儀明信号場付近)に取り付く斜坑(293m)の掘削が始まったが、75m掘削した時に突出した可燃性ガスと石油に引火し爆燃。建設業界誌の記述によれば、数人の坑夫がこの事故をきっかけに辞めてしまったという。
この斜坑での爆発事故、思うに「魔物のご挨拶」ではなかったのか。
中工区が受け持つ区間の地上は、一見ありふれた農村地帯である。西工区のように明らかな山岳地形ではないし、当の鍋立山はその西工区寄りだ。ほぼ同時期に、国道253号の儀明峠トンネルが造られた(1979年7月完成)が、似たような場所を掘りながら特に難工事ではない(ただし温泉が見つかった。それがトンネル西口付近の大山温泉である)ことから、鍋立山トンネルの「魔物」は鍋立山そのものというわけではない。
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文字ばかりでは退屈なので、地図を追いながら話を進めることにする。
筆者が使っているゼンリン地図帳は、基本が住宅地図なので山の険しさなどが分かりにくいのが難点である。
<地形図はこちら>
西工区に問題が出始めるのは国道だとトンネルを出た辺りからで、山岳部に特筆すべきことはないようだ。
従来から知られてきた「難工事」の場合、その多くは山岳トンネルにつきものの山ハネ(地圧に耐えかねた堅固な岩盤が砕け飛び散る現象)に由来するものであった。それが、山には問題がなくて山じゃないところに大問題があるのだから、工事関係者にとっては相当意表をつかれたのではないだろうか。
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不意に飛ばすがこちらは東工区の範囲である。上の図とは縮尺が違うので注意されたい(スケールが出てくれないのが悩ましいのだが)。
ちなみに工事誌では延長が9116.5mとなっており、四捨五入して9117mとしているの場合もある。しかし現在の路線図では9129.5m(9130m)と記述されていることから、まつだい方か大島方に若干延長されたのかも知れない。
さすがに後発路線だけあって測量精度が良いのか工事キロ程と実キロ程にほとんど差がないので、調査は楽だ。
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そして問題の中工区だが…。
中工区は、都合6回に分けて分割発注されたため、その分割番号と区間、キロ程を示したものである。数字ばっかりだがご容赦のほどを。
斜坑と複線区間は1976(昭和51)年3月までに掘削を終え、その1工事も1978年10月に完了している。相変わらず高圧のメタンガスと石油類の滲出が続いていた。
事態が急激に悪化するのは松代側のその2工事からで、9つの補助工法を試しながら27ヶ月も要したところで工事凍結となり力尽きた。仕方なく予算と人員を振り向けたのか、その3工事の先の区間をその2工事とし、NATM試験施工の実施と共に西工区との貫通を果たしている。
先に行けないのでその4,5工事は完成した東工区側から掘削、これも時間切れとなり32k404mにバルクヘッド(切羽面の崩壊を防ぐための封印)を構築した。こうして、中間部645mが未掘削のまま冬の時代を迎える。 |
残り645m
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1985(昭和60)年、第三セクター北越急行株式会社が発足。北越北線は公団工事線としては最低ランクのAB線に分類され、建設が危ぶまれていたところへの救いの手であった。同時期に工事凍結された路線のいくつかは、日の目を見ぬまま消えている。
同年8月19日、早速鍋立山トンネルの未着手区間の攻略が始まった。これが中工区その6工事である。
その2工事が難航を極めたことから、まず中5工区側からの迎え掘りを進めることにした。ここで、これまでの馬蹄形断面に代わり、強度が高く鉄道トンネルとして効率的な有効面積が得られる卵形断面を採用した。
この方法で178m進んだところで、支保工の変状や破壊が大きくなり、それに伴う縫い返しを幾度も余儀なくされることになった。そこで上半断面の中央に円形の導坑を先進させ、地山の応力を下げる試みに出ている。それと同時に、下半と上半で少し丸みが異なる「卵形」から、さらに強度を上げる目的で上半も円に近づけた(オーバルコース型とでも言うべきだろうか)。
ところが95m掘進したところで一層状況が悪化したため、32k673m地点で3m分を逆戻りしてモルタルで封印した後、最も強度の高い円形断面とし、なおかつ中央導坑(円形)先進工法に切り替えた。
しかし側壁の強度は保てても、切羽面からの押し出しにはなすすべがない。結局、東口側からの施工は32k800m地点で立ち往生してしまう。
1988(昭和63)年7月、今度は儀明方からの掘削が始まった。
円形断面の中央導坑先進方式としたが、手掘りではなくTBM(トンネルボーリングマシン)を導入、一気に工事を加速させる手段に出た。
当時最新鋭といわれたこのTBMは、1989(平成元)年1月11日に切羽に据え付けられると、月進60mというこのトンネルでは驚異的なスピードで導坑を掘り進んでいった。それまでの平均月進はたったの3mという有様だっただけに関係者は拍手喝采しただろう。
このペースなら、半年もあれば残り300mくらいなどあっさり抜くことができると喜んだのも束の間、
急所を突かれた「魔物」が、暴れ出す。
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前代未聞のマイナス月進
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TBMが発進してからわずか1ヶ月後。
60m程度掘り進んだあたりで地山の押し出しが急激に増加する。
実は、その2工事を行った際、切羽面の強度を保つためある程度の地盤注入を実施してあった。TBMは、その注入範囲にいるうちは快調だったのだが、注入範囲を突破してから雲行きが怪しくなり出したのだ。
1989(平成元)年2月14日、シェル先端が65.5m(32k984.5m)に到達したところで遂にあるまじき事態が起こる。カッターが地山に捕まってしまったため一旦引き戻そうとしたのだが、マシンの後退速度(6cm/分)より地山の押し出し(10cm/分)のほうが速く、操作不能に陥ってしまったのである。
その後、地山はじわじわとTBMごと押し戻しを続け、わずか10日後には50mも後退してしまった。
そして、掘削停止から1ヶ月と経たない3月4日。
なんということだろう、掘削開始地点に戻ってきてしまったのだ。
さて、ここから先の部分については、文章のみ書き連ねるより実際の映像を見ていただいた方がいい。
あの「NHKスペシャル テクノパワー」の一部分を、以下にご紹介しよう。
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動画ではなく静止画である。
放映は1993年の初め頃だったと思うが、詳しい放送日は覚えていない。
最近になってVHSで録画してあったものをDVD化したので、キャプチャが可能になった。
映像の使用について、NHKでは「番組を研究等に用いる目的で、それが主とならなければ許諾の必要はない」としているため問題ないだろう。
テーマ曲は今やサウンドトラックで超有名な千住明氏。建設機械の槌音のようなノートが印象的である。
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シリーズは全5回。
1:人工地盤(関西国際空港)
2:長大橋梁(明石海峡大橋)
3:ダム(黒部ダム)
4:トンネル(英仏海峡トンネル)
5:社会資本の維持補修
というテーマであったが、放送日がちょくちょく変動したため2,4,5しか録画できなかった。
このうち鍋立山トンネルに触れているのが第4回である。
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若かりし頃の松平定知アナ。
今からもう15年も前だから無理はない。筆者は小4である。小4の頃から既にこういう番組ばかり観ていたたため、学校では友達とテレビの話題が噛み合わず苦労した。
鍋立山トンネルは、地盤からの高い圧力によって掘削が進まない事例として取り上げられたが、その事例としては必ずしも適当でない題材であると思う。現場がアルプス級ではなく、圧力はガスに起因するものだからだ。
とりあえず以下からはその部分の映像である。文章の上半には映像中のナレーション(番組では森田美由紀アナが担当)を文字に起こした物を記す。
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新潟県松代町。
日本有数の豪雪地帯です。
昭和43年、ここに北越北線というローカル線の建設が始まりました。 |
この映像はどこからどの方向を写した物なのだろう。右側の建物に特徴がありそうだが、筆者の取材時の記憶からは取り出せていない。 |
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町に鉄道を通すことは、地元の人たちの悲願でした。
しかし、今も開通していません。
ルート上にある鍋立山トンネルの工事が遅れているからです。
トンネルの長さは9km。 |
「なべたちやま」という耳慣れない名前を聞いたのはこの時が初めてである。
この場所はどうも東坑口のようであるが、中工区の工事であるためか看板は西松建設のものになっている。 |
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工事が行き詰まったのは、残りわずか645mになってからでした。 |
トンネルといえば馬蹄形、を見慣れた目には非常に奇異に映った。
敷かれている線路は工事用の物だ。 |
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平成元年には、最新の掘削マシンも投入されました。
しかし、一ヶ月後には立ち往生してしまったのです。 |
導坑を掘るのが目的なので、直径はせいぜい3mほどしかない。
周囲に見えるのがシェルで、300tにも及ぶ地圧に耐えられるような設計となっている。 |
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当時の様子を現場で撮影した映像です。
掘っていた面から地圧で粘土状の土砂が激しく吹き出しています。
埋もれているのが掘削マシンです。 |
これは既にTBMが発進地点まで戻ってきてしまった後の話である。
機械の隙間から土砂がドバドバ、いや本当に擬音語の通りドバドバ出ている。子供が公園の砂場で作るようなトンネルのほうが、よほど安定している。 |
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5月5日
1平方メートル辺り300t 30気圧もの地圧が計測されました。 |
つまりシェルの設計圧力に本体が晒されてしまったのである。 |
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6月3日
掘削マシンの機械部分が、地圧で押し出されてしまいました。 |
この場面は相当に危険な状態だったと思われる。
番組ではBGMが被さっているので実際の所は不明だが、恐らく作業員が山鳴りか何かを聞いて撤収を号令したに違いない。
3枚目、作業員が離れてすぐに土砂と煙(ガス?)、その後何かの液体が吹き出している(水なのか油なのかはよく分からない)。まさに間一髪だ。 |
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そして6月4日には、マシンは押し倒され、完全に壊されてしまいました。 |
ここからが一番まずい部分である。
勢いの止まらない押し出しで、既に完成していたその2工事の区間をも埋め始めたのだ。
導坑口から完全に抜けて崩れ落ちるTBM。無念だ。 |
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7月になってようやく土砂が吹き出すのは収まりましたが、トンネルは土砂で埋まり、100mも押し戻されてしまいました。 |
この映像の時点ではまだ100m後退してはいない。
6月16日にTBMを回収し、25日に本坑の下半分をバルクヘッドで防護するが突破されてしまい、7月22日、33k085.6mに厚さ3mものコンクリート製バルクヘッドで全断面閉塞し、ようやく押し出しを食い止めたのである。
5ヶ月で-100mという、文字通り負の記録を残してTBMは退却した。 |
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地圧は壁や天井にも加わり、トンネルを支えていた鉄骨まで折り曲げてしまったのです。 |
無惨に折れた鋼製支保工。
スチールメッシュにロックボルト、吹き付けコンクリートというNATMの常道を踏んでも歯が立たなかった。
番組ではこの後NATMの話と成功例に移るのだが、それだと鍋立山はNATMを使わなかった(ために難工事となった)ように思われてしまう。
筆者の考え違いだろうか。 |
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<日本鉄道建設公団松代鉄道建設所長(当時)の話>
「ここの場所は地上から150m下にあります。
通常ですと、「がん」と言いますか、カチカチの岩になっているんですが、ここはこういう柔らかい粘土になってます。
これがガスと一緒に出てくるんですね。でトンネルを我々が掘ってると、掘る以上に何倍もの土がこういう風に柔らかいためにどんどん出てくると。」 |
手にしているのが掘削土だ。
指でぐにょりと潰れるほど脆く頼りない。
こんな地山にロックボルトを何本打っても、糠に釘状態なのは想像がつく。 |
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「もう、いろんな工法やっては全部、こう、全滅しちゃったと。
ある意味ではトンネルの博覧会ぐらいの感じのいろんな工法をやったんですけど、どれもこれも先は鳴り物入りでやったんですが、大きな土圧と、大きなガス圧で、まぁ、全滅したといっても良いかもしれません。」 |
所長の口から思わず二度も飛び出す「全滅」の言葉。そして「トンネル博覧会」との例えが妥当すぎるほど試された工法の数々。
掘削土を握りしめながら語る所長の表情には疲れの色が見え隠れした。 |
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鍋立山トンネルは今も掘り続けられています。
しかし強大な地圧はいっこうに衰えません。
トンネルの先端では、コンクリートや材木を使って何とか地圧を押さえつけようと試みられています。 |
作業員は中央導坑の覆工に乗って作業している。
全断面切り拡げの様子だ。
セメント系地質改良材の注入に踏み切ってからは導坑の掘削も着実に進み、既に地山は硬化している。それでも念のためこうして押さえ込んでいる。
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現在、一日に掘り進められる距離はわずか50cmです。
掘り始めてから20年。
トンネルの完成には来年度一杯掛かりそうです。 |
切羽面の補強材をどかし終わると重機が掘削を始める。
地山に見える白い筋が、注入材が浸透した痕跡である。
中山トンネルで莫大な工費を要したことから最後まで温存された注入工法だが、その後注入材の性能も飛躍
的に向上したために可能となった。 |
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以上の流れを図にまとめるとこのようになる。
トンネル工法博覧会という言葉通り、645m間に使用された工法はざっと16。
現代土木技術の英知を全結集させてもなお行く手を阻んだ最難関のトンネル工事が、終わった。
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魔物の正体
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なぜこれほどの超膨張性未固結地山がこの場所に存在したのだろう。
中6工区の直上は蒲生集落のど真ん中であるが、日本では珍しいケスタ地形なのだという。
ここに限らず、新潟や長野などの構造線やフォッサマグナ近縁の地域は、岩盤同士がせめぎ合うことから高い応力が発生し、褶曲作用を受け地層が波打つ。そして古代の地層が持ち上げられることから、石油や天然ガスを産出するのは珍しくない。
ところがその石油や天然ガスの層に何らかの原因で高圧の地下水が流れ込むと…、ある現象を引き起こすのだという。
泥火山(でいかざん)である。
日本では、大規模な泥火山は北海道の新冠で確認されているのみであったが、この蒲生地区にも存在していることが近年判明した。
本州初の発見なのだという。
<十日町新聞の記事へ>
この地区では、以前にもたびたび地面から突然ガスと共にヘドロが吹き出すという珍事が発生していた。これとトンネルが世紀の難工事だった点に着目した研究者が調査を始めたのである。今後どのような成果が上がるのか注目したい。
それにしても、元は南北戦争といわれる松代と松之山の鉄道誘致合戦。
南線にならなかった理由の一つに、松之山温泉の熱水地帯を通過することが挙げられたが、そうして決まった北線ルートに「火山」が存在したとは皮肉この上ない。
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解説編は以上です。一度でやるにはこの程度が限界です。
<下>で航空写真による把握と現地取材の結果を報告します。
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