Treasure Reports
番外編
第十四章 北越急行ほくほく線

第三節 薬師峠トンネル
駅間:松代(現:まつだい)−十日町 位置:25k199m−19k000m 全長:6,199m



薬師峠トンネルは、新潟県十日町市犬伏(旧東頸城郡松代町大字犬伏)から同市大字南鐙坂(みなみあぶさか)に抜ける、全長約6.2kmの山岳トンネルである。
ほくほく線発祥の地である旧松代町は、現在でこそ国道の改良により十日町市街から15分程度でアクセスできるが、昭和50年代前半までは冬期閉鎖の薬師峠を頂く狭隘な悪路で小一時間を要する陸の孤島であった。その峠を一直線にぶち抜き、まさに「風穴」を開けたのがこの師峠トンネルである。

前出の北越北線工事誌p.35〜38、表2-2-1「北越北線工事件名一覧表」によれば、薬師峠トンネルは東西2工区をそれぞれ2分割発注し、1973(昭和48)年8月1日東工区その1工事着手を筆頭に、1979(昭和54)年12月26日東工区その2工事の竣工で完了している。
途中、東工区で大規模な出水があった以外は順調に進められた。

トンネルの西寄りには薬師峠信号場(23k900m)がある。ほくほく線に3つあるトンネル内信号場の一つである。
トンネル内なので、管理保守のための斜坑が存在するのではと密かに期待したが、工事誌にそのような記述は一切無かった。工事中は東西両側からの掘削で中間から始めることはなく、大きな障害もなかったためだろう。信号場へ行くには、本坑を使う以外に方法はないということだ。


じゃあ調べる必要ないんじゃ…?
このトンネルは当初、取り上げないつもりでいた。ある謎を見つけるまでは


航空写真

薬師峠トンネルの施工期間は前段に記した通りである。したがって、航空写真で工事中の様子が確認できるはずだ。
空撮の時期は昭和51年度である。
西坑口付近

毎回航空写真にはロールオーバー機能で注釈を重ねるのだが、意外と面倒な上にIEとNN以外では機能しない(ソースを見たら条件分岐していた。外せば他のブラウザでもOKなのだろうか)ようなので今回は直に表示してしまうことにする。
<元の写真はこちら>

西口の位置が地形図とずれているので何故だろうと思ったが、工事誌のp.152では全長が6040mとなっていたので、おそらく当初は少し短かったのだろう。その後雪害防止などの観点から延伸されたのではないだろうか。

折しもこの時は国道のトンネルも工事中であった。1978(昭和53)年10月、鉄道トンネルより一足先に完成している。
東坑口付近
途中のネタは何一つないのでいきなり反対側である。
目の前は広大な信濃川の河川敷だ。
坑口はこれまた大規模な河岸段丘の崖面に造られている。
曲線を描く桟橋のような物が見えるので、直接坑口からアプローチしていたようだ。
東西両工区とも、あまり坑外設備の規模は大きくない。

トンネルの先は信濃川橋梁であるが、まだ橋脚もできていない。対岸の城之古(たてのこし)路盤は出来上がっているようだが。
<元の写真はこちら>



現地取材・西坑口付近
国道253号を西進し、薬師トンネルを抜けて伊沢橋を渡る直前で南に分岐する道路を入る。
坑口までは大した距離ではない。

スノーシェルターを兼ねた三角屋根の緩衝工が目に入る。高速運転する北越急行ならではの表情だ。











同じ場所からアップで撮影。
左側の柱に銘板が付く。
非常電話もあるようだが、坑口へ直接行けるような道はない。
反対側の犬伏トンネル寄りに階段状の連絡通路が存在する。















犬伏沢とともに道路はほくほくをくぐる。

高架橋の支承部には、桁ずれ防止の金具が付けられていた。地震対策の一環だろうか。
雨水を流すパイプのジョイントにも一工夫凝らしてありそうだ。













トンネルの南側には、湧水とおぼしき水が配管からとめどなく流れ出ていた。真夏だというのに結構な水量である。
そのごく一部は、手前の赤いドラム缶までパイプを伝って流れてきており、驚くほど冷たく、そして透き通っていた。特別においもしないし、飲めそうだったがやめておいた。日焼けした顔や手腕を冷やすには十分である。









トンネル直下の橋台に銘板が付いていたので拡大して撮ってみた。竣工は昭和52年12月20日とあるから、工事誌に記載の師峠トンネル西工区の竣工と同時ということになる。














一方、このシェルター部分は橋梁とは別の足組で支えられているようだ。施工にあたって橋桁の干渉する部分が切り取られている。
この追加工は1991(平成3)年3月31日竣工。元の路盤から実に14年の開きがある。












東坑口付近
東口は信濃川の河川敷に下りれば簡単に行けるだろうなどとタカをくくっていたが、想像より遙かに大規模な100m以上の落差をもつ河岸段丘のこと、かなり遠回りしないと下りられる道がないのだった。













路盤の高さは、信濃川の堤防をギリギリで越せる程度のようだ。
メンテフリーの耐候性鋼板を使用した茶色のトラス橋が印象的だが、さすがに10年経ったからか補修が必要になってきたようだ。













この白い建物は、どうやらポンプ室か何かのようだ。中でブーンとうなる音が聞こえる。
湧水は東工区の方が多かったので、この場所の灌漑用水などに利用しているのかも知れない。













建物裏の溜め池。
湧水は奥の白い調整弁を経て手前に流れ込んでいるようだ。

坑口のこちら側には後付けのシェルターはないようだが、延伸工の一部だけがラーメン橋にまたがっているのはかなり特異な構造だ。












東工区のナゾ

いつもならここでお終いなのだが、そうは問屋が卸さない。
このトンネル最大のミステリーが、東工区には隠されていた。

次の文章には、たった一つの「嘘ワード」が入っている。それ以外は全て事実の話である。


薬師峠トンネル東工区の工事には、ある土中構造物が障害として立ちはだかった。
その構造物とは、何と国鉄自身が戦中戦前、この地に極秘裏に計画し、突貫工事で造り上げた長大隧道だったのである。
しかもその隧道は2本あり、延長7kmほどはあろうという、当時としては破格の規模のものであった。
薬師峠トンネルの施工にあたっては、この長大隧道との干渉が避けられない状態にあった。
隧道は内部に人間が立ち入れないため、老朽化や変状の度合いを調査するのが不可能だったのだ。万一この長大隧道に損傷が起これば、国鉄にとっては致命傷となりかねない。慎重な作業が求められた。


大事なことなので二度言うが、全部嘘くさいが嘘は一つだけである。

頭の中で十分に「」が醸されたら、答え合わせをどうぞ。

国鉄長大隧道との干渉があったのは、左の場所。
19k840m、および19k900mの2カ所である。

案は色々出たが、結局本坑を上半先進ショートベンチ工法で掘進し、速やかに吹き付けコンクリートで補強する方法を採用して無事切り抜けた。

薬師峠トンネル土被り13mで交差するというこの隧道、一体何の目的で掘られたのだろうか。








確かに国鉄の隧道だ
参考:工事誌p.152図3-6-21

もうお分かりだろう。
国鉄隧道とはいっても、通るのは列車ではなく水である。
小千谷発電所千手発電所等からなる「国鉄信濃川発電所」のための長大導水トンネルなのである。
T期は1931(昭和6)年着工、1939(昭和14)年完成。U期は1940(昭和15)年着工、1944(昭和19)年完成である。
冒頭の嘘ワード「極秘裏に」の一言だけであった。が、現在でもJR東日本の首都圏輸送に必要な電力の1/3がこの水力発電でまかなわれていることを考えれば、外敵に破壊されれば間違いなく壊滅的な打撃となるだろうから、戦中は実際に口外無用だったのかも知れない。それにしても、昭和初期薬師峠より長いトンネル信濃川の左岸に2本もぶち抜いてしまうのは驚愕の
一言に尽きる。

それで、だ。この場所の地形図をご覧になってほしい。
<地図閲覧サービス:1/2.5万地形図 千手(高田)>

あー、確かにねー、ほくほく線と2本の水路が交差してますわねー、なるほどなるほど。


ん?

工事誌には2本のトンネルの間隔は60mであることが記されている。しかし地形図の2本は、ざっと500mほどは離れている。
これはどういうことか????

…といったところで、筆者はこれ以上の深入りはしないことにした。鉄道トンネルだけで手一杯なのに、水路トンネルにまで首を突っ込んでしまったら到底収拾がつかなくなる。なお、水路トンネルにも斜坑や立坑はいくつかあるそうなので、興味の沸いてきた方は自力で調査いただきたい。

※後日、JR東日本が申告より多く取水し発電していた問題がクローズアップされたが、お陰で取水口から発電所までの経路がよくわかるようになった。それによると、導水トンネルは複線で、もうひとつ後期に建設された別の経路があるようだ。さらに山側で、交差の間隙もより広いと思われ、トンネル施工上問題にならなかったものと考えられる。



第四節 赤倉トンネル へ続く

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第二節 霧ヶ岳トンネル へ


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