Treasure Reports
番外編
第十四章 北越急行ほくほく線

第二節 霧ヶ岳トンネル
駅間:沢田−頸城大島(現:虫川大杉−ほくほく大島) 位置:??k???m−??k???m 全長:3,733m


いきなりお詫びから始まって恐縮なのですが

出だしはほくほく線内で4番目の長さとなる霧ヶ岳トンネルから始めることにしようと思って資料を見返したところ、あろうことか入口と出口のキロ程を調べるのを忘れてました。番外編とはいえ数値的根拠のないレポートを書くのはあるまじき事態で、次に国会図書館に行ったら調べ直して載せますのでどうかご勘弁下さい…(滝汗)。多分暑さのせいです。そういうことです。

では気を取り直して続きをどうぞ。

ご注意
ほくほく線は六日町起点ですが、横書きのセオリー上左から右に説明した方が分かりやすいと考えられるため、出入口の関係を逆に記述しま。つまりキロ程が減少する方向になります。駅間も犀潟側から書きますので、あらかじめご了承下さい。



霧ヶ岳トンネルは、新潟県上越市浦川原区(旧東頸城郡浦川原村)と同市大島区(旧大島村)にまたがる、全長3.7kmあまりの山岳トンネルである。
名前の通り、霧ヶ岳(標高507m)を貫くトンネルで、地質は良好な方である。

トンネル内に信号場があり多くの人に知られている長大3トンネルならまだしも何故このトンネルに目を付けたのかというと、2008年最初のレポートとなった東北新幹線滝沢トンネルの例があったからである。すなわち、一応全部のトンネルについて横坑・斜坑の有無や興味深い工事・経緯を辿るものはないか調べることにしたのだが、やはりその方針で正解だった。

今回の調査の核とした資料は、国会図書館に収蔵されている「北越北線工事誌(日本鉄道建設公団・編)である。毎度の同じ轍で、上越の調査の「ついで」に借りたはずが結局読みふけることになってしまった。読みふけったくせにキロ程を失念したのは「まつだいまでの恥」である。

で、工事誌p.240,241によれば、工事は東工区(1826m)、西工区(1828m)、開削部(140m)の3つに分割され、このうち西工区には125mの横坑が存在するという。この作業横坑は、開業後の保守管理通路として活用すべく補強整備を行い在置されたとあるので、現役であることが確定的である。ならば探しやすい。


って、ちょっとマテ。何だこの数字は
1826+1828+140=3733が正しいとすると、1=2というのと大して変わらない(このネタを知っている人はかなり暇人)。とりあえず足してみた結果、3794みたいなのだが61mはどこに置いてきたのだろう。ちなみに工事誌p.125のトンネル一覧表には3733mとあり、開業時の数値も同じらしい(鉄道ジャーナル97年6月号p.56図)から、これが公式な値だろうと思う。だが同じ工事誌のp.240、タイトルが「霧ヶ岳T(3,727m)」となっていてさらに短い。
本当の長さはどれなのさ。

順調に工事したのに14年?

このトンネルにまつわる数字の罠はもう一つ、施工期間である。1978(昭和53)年着手で竣工が1992(平成4)年4km掘るのに14年も掛かったらそれは全然順調ではないんじゃなかろうか、と思いつつ本文を読んで納得。理由は大きく分けて2つである。

1,工事凍結による空白期間
1980(昭和55)年国鉄再建法成立により、北越北線は需要の見込めないAB線(地方交通線)に分類され工事凍結を宣告されてしまう。実際に工事がストップするのは1982(昭和57)年3月のことだが、この時点で霧ヶ岳トンネルは開削区間と西工区をあわせ延長700mが完了していたに過ぎなかった。
工事の再開は3年後1985(昭和60)年3月、西工区は翌年12月11日に完了した。で、東は?

2,東工区の開始時期
東工区は、始まりそのものが遅かった。着手は何と1988(昭和63)年3月で、西工区の再開よりさらに3年後である。竣工は1992(平成4)年12月11日だから、同時に始まっていれば東西両工区とも5年程度で済んだ計算である。
ではなぜ東工区は10年もずれたのだろうか。

工事進入路をトンネル入口に至る六夜沢川沿いに計画したが、浦川原村上水道の水源地であることから同意を得られず、既に完成していた深沢トンネル内を経由する進入路となった。

!?
坑外設備を設置できなかったので、隣のトンネルを使ったということらしい。普通そういう場合に横坑を掘るのではないかと思うのだが、それすらできなかったということなのか。道路トンネルでは完成済のトンネルや橋梁を使ってその先を造るのは珍しいことではないが、鉄道トンネルでそういう事例は他にあっただろうか?筆者が知らないだけかもしれないので、ご存じの方はご教示いただきたい。
東工区は上半下半発破・機械掘削NATMによる施工なので、タイヤ方式での機材運搬になると思うのだが、1700m近い単線トンネルでは一方通行で相当時間を食われたのではないだろうか。
深沢トンネル自体が1986(昭和61)年8月4日1988(昭和63)年7月15日とだいぶ遅い着工なので、このトンネルの貫通まで待たされる形になったようだ(さすがに竣工までは待てなかったのか、4ヶ月フライングしている。間に橋梁の施工もあるのでさらに前かもしれない)。

さて、1978年着手ということは航空写真による事前調査は不可能である。
ということで現地調査に賭ける形となった。横坑は現存施設らしいのでそんなに苦労することはないだろうけれど。


今のこの台詞に大抵の人がピンと来たと思う。そう、そうなのだ。
予想は常に裏切られるのだ。


話がややこしい
トンネルのキロ程情報を失念しているため、横坑の位置を割り出す手がかりは工事誌p.241にある図3-6-88しかない。この図、面白いことが書いてある。

横坑を掘ったはいいが、測量の精度を確保するために途中から測量坑を掘削し、基準線907.4mを確保したのだという。
で、その測量坑の本坑交点が43k878.5mなので、虫川大杉のキロ程44k880mから算出すると左のような感じになる。もっとも測量基準線は誤差が出まくりだと思うがご勘弁願いたい。

で、測量坑と横坑は坑口は共通であるから、交点は前後のどちらかにずれていると踏む。
当初考えていた道路(灰色の細い線)から離れている感じだが、取り付け道路があるのだろうか。

こういう割り出しを行う場合は、マピオン「キョリ測」を使う。

−虫川大杉駅の位置を基準に測量坑交点の割り出し−
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=route&el=138/26/40.595&nl=37/9/6.644&scl=25000&env=0100&dist=
0iqE695B966440irl026B92729

−測量坑交点を基準に測量基準線位置を推定−
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=route&el=138/26/40.595&nl=37/9/6.644&scl=25000&env=0100&dist=
0irl225B925700irl126B9v971

−測量基準線から横坑位置を推定−
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=route&el=138/26/40.595&nl=37/9/6.644&scl=25000&env=0100&dist=
0irm024B927290irl225B96724

相当な不正確さを含んでいることを織り込み済みの上であるが、全くの暗中模索ではないのでかなり楽だ。
便利なツールはどんどん使っていこう。

で、探索まで相当に引っ張るのかと思わせて裏をかいてみる。
何故かというと、探索過程の写真を全く撮っていなかったからである。色々と残念だ。

実際には、先述の道路から首をかしげるほどの坂道を上り、農機具の置かれた小屋を行き止まり(写真右方)に発見して引き返そうとした矢先の発見であった。すんでの所で見逃しは免れた。が、しかし、それにしても…。

いろいろと既成概念を崩される風貌をしている。
現役というからもっと端正な坑口かと思ったのだが、作りかけの粘土細工みたいな容姿は予想外であった。
一次覆工に軽くモルタルを吹いただけのような簡素な作りだ。これで補強したというのだから工事中はもっとヤワな姿だったことになる。
気になったのは、正面向かって左側がめくれたように傾いていることで、想像だが測量基準線の「逃げ」だったのではないだろうか。

坑口前に新幹線斜坑のような厳重な囲いは存在しない。金網状の扉の仕切りのみで、しかも北越急行の施設である表示の類も一切見受けられなかった。
路盤にも草が生えていて、あまり使ってなさそうな感じである。
ちょうど<はくたか>が通過したので全身に思いっきり暴風を浴びた後、虻がうるさいので退散した。虫が多すぎとは何の冗談か。
そのまま、取り付け元の道路を虫川大杉に抜けてみることにした。
地図でお分かりの通りほくほくとはトンネル同士の立体交差となっているのだが、箱形断面の立派な物だったので工事時に施工したのだろう。
南側を出口まで併走するが、ここは開削区間であった。写真のようにトンネルの外壁(というのだろうな)が続く。



そして出口となる。
意外なほど高い位置を走るのに驚く。道理で横坑が必要となるわけである。

この辺の線形は計画時から変わっていないはずなので、どのような形で開業しても基本的な外観はこのままだ。幸い、高規格をフル活用する役回りが巡ってきてよかったのだが、当初の輸送計画通り2両編成の気動車が関の山の場末のローカル線に堕していたとしたら、この規格はあまりに過剰だ。もっとも、未成で終わったら論外であった。
禍福とは測り知れぬ物である。



トンネルのすぐ脇は、虫川大杉の駅名由来となる国指定天然記念物「虫川の大スギ」である。
推定樹齢は1000年とされているから立派なものだ。

虫川大杉の計画時の駅名は「沢田」という、失礼ながら何の変哲もない名前であった。奇をてらった珍妙な駅名は筆者はあまり好きではないが、こんな近くに由緒ある名跡がある場合に全くそれを考えないのもどうかと思うのである。

大杉の長寿にあやかって、ほく
ほく線も千歳のご加護があると
良いのだが。


今回のおまけ。
はくたか通過時の横坑の様子である(AVI・35MB・67sec)

風切り音は全部列車風によるものだ。通過音と同時に猛烈な吸い込みが始まり、筆者も危うく連れて行かれるところだった。
線トンネルの高速通過における風圧は新幹線を上回るという。

吸い込みの時間が短いのは、虫川大杉方の延長が短いためである。

これまで取材した場所のほとんどで動画を記録しているのでもっとお見せしたいのは山々だが、Webの容量を考えると難しい。
リクエストがあればどうぞ。
次回は薬師峠トンネルです。順番的には鍋立山なのをそうしないのが筆者のいやらしいところ。


第三節 薬師峠トンネル へ続く

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