Treasure Reports
第一編 東北新幹線(東京−盛岡)
第十二章 那須トンネル

第三節 現地へ行く(1)

割と近い

筆者の家から現地までは、およそ1時間強。高速を使い白河ICで下りるところでジャスト1時間といった具合である。全部下道を使ったとしてもせいぜい2時間強で、難なく日帰り取材のできる場所であった。これが上越方面に行く場合だと、このトンネルに近い西那須野SAでようやく全行程の1/4にしかならず、気が重い。


南坑口〜前原工区
東京方の坑口には、このような立派な扁額が存在する。
当時の栃木県知事による揮毫のようだ。



















トンネルの出口はご覧の通りの掘割地形である。土被りがほとんど無いこともお分かりいただけるだろう。



















西側の側道を下っていくと、地面から何か四角い物がせり上がり、建物に繋がっている。

これは…。


















そう、長大トンネルの必須アイテム、トンネル巡回車の基地であった。
地形的に直接のアプローチは難しく、この位置になったようだ。

それにしても、トンネル自体より遙かに狭くて暗い空間をうねうねと進んでいくことを考えると少し怖い気がする。












巡回車基地の真向かいには、人が入るのに使う非常口がある。



















トンネルの上部を横切る町道まで戻る。
この写真の撮影日は、丁度1年前の2007年4月であったが、この日は天候が悪く何度か天気雨にやられた。雲が厚くて暗く写り、ある程度補正を掛けていることをお断りしておく。


で、問題はこの写真の左下だ。











なんぞこれ。

坑口からわずか30mほどだろうか。コンクリート製の蓋のような構造物がある。
しかも単なる1枚ものではなく、中央付近にコの字型の切り欠きが入っている。

いかなる資料を当たってみても、この構造物についての記述はなかった。立坑というには面積が小さすぎるし、よく分からない。








ここからしばらくは道路脇の草地がトンネルである。
保護盛土という意味なのだろうか、若干道路よりはかさ上げしてあり、それが延々と続いている。

ちなみに途中にはベンチやテーブルが置いてあり、事実上の公園のようなものとして機能しているようだ。
2008年3月の再訪時には数人のオバチャンがこの上でゲートボールに興じていたことを記しておく。






草地はまだまだ続く。
県道28号線と交差する。





















県道をやり過ごすとただの荒れ地になる。道路も舗装されておらず、所々に水たまりもあって整備は今ひとつのようだ。


















針生工区
写真の場所あたりで前原工区から針生工区に切り替わる。
といっても、針生工区東京方開削であるため、外観上は区別が付かない。

関心事は針生立坑がどの辺にあったのか、現存しているのかということであった。













うーん…。
工事誌p.628図6-5-4-6を見ると、立坑の位置はどう考えてもこのクマザサの劇藪のまっただ中である。

















この辺りの地面には、二級基準やら用地境界標やら、いろんな物が埋まったり転がったりしていた。


















これは刈り込みでもやらないと奥に進むのは無理でないスか?

近寄ってつぶさに観察すると、どうもある程度盛土してあるところにクマザサが根付いてしまった感じで、ひょっとすると立坑を埋め戻した後にさらに土を被せてしまったのではないだろうか。
もしそうであれば、劇藪を取っ払っても立坑自体を拝むのは不可能である。









往時を偲ぶことができる数少ない構造物を発見することができた。
木の枝に同化してしまい分かりにくいが、斜めに傾いた電灯が写っている。
これと全く同じ物が、東北新幹線建設工事写真画報p.136右上の写真に載っている。
当時はまだ銀色に輝いて直立しており、時の流れを否応なしに感じさせる。









もう一つの遺構は、これは推測でしかないのだが、立坑脇を山に分け入っていく道路の西側に少し残ったコンクリートの塀のようなものがある。
これは場所的に第一沈殿池の名残ではないかと思うのだが、どうだろうか。














さて、その脇道を奥へ進んでいくと、道が左に折れるあたりで正面にこのような風景が見えてくる。
右の黒っぽいのが、あの問題の角穴のような構造物だ。
航空写真と比較すると、トンネルの位置は正面の荒れた部分であるはずだ。













穴のように見えたのは、溜め池であった。
山際を流れる用水路の水が一旦ここに引き込まれ、あふれた分はまたどこかへと流している。
灌漑用の物だろうか。

少し分かりにくいが、溜め池の手前側の角の左下に、頭の削れた用地境界標がある。
池はトンネルとどういう関係にあるのだろうか。









もう一度航空写真を見てみよう。

四角い部分が溜め池だとすると、一つの仮定ができる。
トンネルを掘ったことで地下水位が下がり、水が抜けてしまった場所なのではないか?と。

左上にもう一つ池の存在があるのがお分かりいただけるだろうか。
この池が渇水等で使用不能になったため、その代わりとしてコンクリート製の溜め池を新設したのではないか−そう筆者は考えている。

地面がまっさらなのも、ある理由が想像できる。これについては松沼工区のレポ時に明らかにしたい。
那須トンネルの工事補償の章は確かにあるのだが、この区間で渇水が起きたかどうかは触れられていない。従って想像の域を出ることはできない。

ただ、前述のもう一つの池が、写真のように全く消え去っていることを考えると、代替施設ではないかとの推理が現実味を帯びてくる。











さらに奥へ進むと、玉石で築かれた切り通しの道となる。割と広いが砂利道であることに変わりはなく、しかも落ち葉が積み放題である。
















視界が開けると、家一軒。
他にこのような施設がある以外は、うっそうとした林の中だ。

どうも、こんな場所に別荘地を開拓していたらしい。
















こちらは確実に稼働してない感じのする給水施設。
メーターのようなものが何か別次元の生物のような不気味さを醸している。

















道路は交錯していて見通しも悪く、何度か迷子になった恐怖もある。
そんな中からようやく急坂で下りていく道を見つけた。
















先ほどの別荘地から20mくらいは落差のあるこの地点が、CCP工法で通過した区間である。
トンネルは左が東京方、右が岡方で、道路とは直交している。

なぜかトンネルの真上だけ道がぬかるんでいる。新幹線の振動が影響しているのだろうか。

※この場所の撮影は2008年3月の再訪時で、雨は降っていない








トンネルの真上辺りで盛岡方を望む。
工事誌p.630写真6-5-5-15を見ると、ここから奥の林までは地肌が露出しているのだが、さすがに三十年放っておけば景色は一変する。
ここでもやはりクマザサが猛威をふるっていて、ある意味では土地に手が入ったことの証になっている。










さて、この周囲に存在する用地境界標が、いずれも随分鮮やかな色をしていることに気がついた。

近付いてみると、まとわりつく枯れ枝の一部に、赤いペンキが付着していることが判明した。
これは比較的最近になって塗り直されたことを裏付けるもので、こんな僻地のどうでもいいような場所でもきちんと管理されていることに感心してしまった。








こんな場所、とはいえ一度は人が手を入れて住み着こうとした場所のようだ。
恐らくまともにその使命を果たさないまま、朽ち果ててしまった二本の電灯が無言で立ちつくしていた。
写真は撮らなかったが、地面には至る所に個人名の書かれた立て札が植えられていた。

高度成長期か、あるいはバブル期あたりに、この地に夢を買った人がたくさんいたのだろう。
その時代から歴史を止めてしまったようだった。

草木は容赦なく生い茂る。
足元を何も知らずに新幹線が往く。
次回は現地取材の後編、松沼工区矢ノ目工区に向かいます。


第三節 現地へ行く(2) へ続く

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