Treasure Reports
第一編 東北新幹線(東京−盛岡)
第三章 上野第二トンネル

第四節 地中の曲芸

道理で見つからないわけだ
この章を書くにあたって重要なソースとなるのが、東京−上野間でも出てきた「東工」という雑誌である。
上野−赤羽間の工事記録は、東工36号(1986/3)に特集が組まれている。普通の工事誌とも遜色ない800ページ超の大作である。

さて、まずは「下谷立坑」がどこにあったのか、ということだが…
p.22の縦断図によると、下谷立坑は上野駅構体に完全にくっついているようである。
そしてp.315およびp.751の平面図を見て愕然とする。解説は次の通りであった。

p.318-
(2)施工
本工事は、第2上野トンネルシールド発進たて坑として台東区道67号の直下に開削工法として施工したものである。

道路のど真ん中??
これは前回の写真だが、この構造物は「北部ごみ搬出口」というらしい。上野駅躯体のもっとも北に位置するようである。

下のゲートは上野地下駅に続くスロープであるが、それとは別に構内のごみが地下の処理室に集められ、中央のタワーに仕組まれたコンテナクレーンによって地上にリフトされてトラックに積み込むという流れらしい。
簡単に言えばこの構造物は「ごみ立坑」ということになる。








そして肝心の下谷立坑の位置は、ここ!

…ワカランて。

中央奥の黒い柱が上の写真のリフトタワーである。その延長線上から若干右にずれた、この道路(区道67号)のど真ん中に立坑はあったという。

何度舗装を直したのかは知る由もないのだが、完全に分からない。敗北である。

結果的に、前回取材した構造物は、全てトンネルとは関係なかったのである。アァ…






これは別の日に撮影した写真である。
ちょうどごみリフトの入り口が開いて、今しもトラックに積み込まれんとしている状態だ。

下谷立坑の施工にあたっては、4車線ある区道のうち常に3車線を確保しつつ掘り下げていったようだ。
地中には、各種ライフラインの管を始め、昔走っていた都電のレールや枕木、バラスト、さらにその昔は墓地だったことから棺桶やら遺体やらも出土する始末で、関係各所とのやりとりに苦労した、という。







下谷立坑から日暮里側が、谷工区となる。12.66mという、当時世界最大級のシールドトンネルである。が、この当時はまだ手掘式であった。

立坑の北側にあるのが、この野郵便局(工事誌には下谷局と記載)である。建物を支える地中杭が支障したため、シールドの通過に先立ってアンダーピニングにより補強している。

この郵便局の下あたりからトンネルは半径418.25mという急カーブで進路を西側に曲げる。








もう一度昔の航空写真を見てみよう。
左が昭和54年、右が昭和59年の下谷付近である。

どうやら、54年のほうでオレンジ色の機材が写るあたりが立坑のようだ。一方、右は道路の舗装が真新しくなっている。

前回お見せした巨大な排気塔(写真下)が54年にはまだ存在しない点にも注目したい。











下谷パイロットトンネル?
工事誌は一旦、下谷立坑の解説を終わり、寛永寺橋立坑について書き始めている。
そちらは後で触れるが、読み進めていくと次のような記述が出てくる。
p.402
13.パイロットトンネル
第2上野トンネルは、施工困難な滞水砂層がトンネルの上部または下部に位置するため地山安定処理が必要になり、トンネル周辺の立地条件から、地上からの施工が不可能なためパイロットトンネルを設け、これを作業坑とし、本トンネルの地山安定処理を施工する必要があった。下谷工区は、本トンネル断面内にパイロットトンネルを施工した

「本トンネル断面内にパイロットトンネルを施工した」という記述の意味を理解するのにしばらく時間を要した。
要するに先進導坑を掘って薬液注入・地盤改良をしたのである。驚くべきは、その導坑自体もシールドトンネルだということである。つまり小さいシールドトンネルを大きなシールドトンネルに食わせたのだ。そんな工法もあるのか、と感心してしまった。

で、何と、そのパイロットシールドトンネルを施工するために、下谷でも寛永寺でもない別の立坑が存在したのだ。
「下谷パイロットたて坑」と、工事誌には載る。問題はその場所がどこなのか、ということであった。
p.403−
(ア)永楽ビル跡地をたて坑とし、上野方176m、日暮里方455mを掘進した(図5-4-4-30(図略))。

およそ工事場所の表現が抽象的すぎて場所がつかみにくいのが工事誌の悪いところなのだが、これは逆に具体的すぎて一体どこなのかさっぱり分からない。大体「永楽ビル」ってどこの何なんだと。
その「図5-4-4-30」も、「永楽ビル跡」に相当するとおぼしき土地区画分の範囲しか載っていない。困った。

しかしパイロットトンネルが「本坑断面内」とすると、立坑は本坑のライン上にあるはずと考えていい。
また、その図の区画線が妙に変な図形(凹角五角形とでもいうのかな)であることを考えた結果、次の場所であると推理した。
妙な区画線の正体は、南側に建つ日伸ハイツマンションの土地であった。
図5-4-4-30を改めて見ると、立坑のサイズは7×9.7mであったようなので、ゼンリン地図上に作図すると左のようになる。

















現地に行ってみた。
白木屋だった。ぬおー。

この場所が立坑跡であったことを裏付ける現地の痕跡は全くないと言っていい。
ただ、承前の「東北新幹線建設工事写真画報」に、左の伸ハイツマンションと手前の茶色い雑居ビルが写り、その右側が塀に囲まれた空き地で、オレンジ色のウィンチが鎮座ましましている写真が載っていたため恐らく間違いないだろう。
つまり、白木屋のビル以外は25年前とほとんど変わってなのである。
地中に大勢の人々の時間が移動する一方、その地上の時間は止まっていたのだった。

ちなみに日伸ハイツもまたアンダーピニングを施工している。
白木屋ビルの目の前にある、下谷二丁目バス停。

新幹線のトンネルは、この場所より右の道路下に進み、奥に見える寛永寺橋の下に入ってゆく。

















もっととんでもない所にあった!
次は寛永寺橋立坑に移る。
この立坑付近の線形は直線だが、今度は25‰という急勾配上である。下谷立坑から発進したシールドの到着と、寛永寺橋工区のシールド発進を兼ねるものである。

その場所は、にわかには信じがたいものであった。
p.323
2.寛永寺橋たて坑
寛永寺橋たて坑は、道路橋直下に位置し、しかも両側にはランプが傾斜して存在している。また、前後に橋台と橋脚が接近し、ランプの橋脚の一部はたて坑施工に伴い受工事を実施した。

何と立坑の場所は道路橋の真下だというのである。ふつう、縦穴の上は青天井という先入観があっただけに、この記述はセンセーショナルであった。これでは、いくら当時の航空写真を眺めても見つからないのは当然である。
その場所に行ってみると何やら怪しい構造物が見えてきた。
仮受けしたと書かれているのは恐らく中央の橋脚である。
p.326の平面図を見るとまさにここのはずだが、橋脚の奥にあるのは何だ…?


と期待して近づいたら、地元の防災倉庫だった。ガッカリ。
ただ、場所的に立坑の真上であることは確かなはずなので、上に蓋をして作られたのではないかと邪推する。第一トンネルの御徒町立坑のように。






防災倉庫の脇を覗いてびっくりした。
ちょっとグロテスクな生物のようにも見えるこの巨大な管は何なのか、と思ったら下水道の空気抜きらしい。
工事誌の図面を見るとこの下水道幹線の地中位置も書いてあることが分かった。
いずれにしろ立坑とは無関係で、ビックリのちガッカリの荒れ模様は続く。












防災倉庫の裏側にある駐車場を写す。
寛永寺橋立坑は奥の入口に見える停車禁止パターンから、手前の緑色の橋脚の直前までのサイズであったようだ。
下谷立坑同様に舗装されてしまっては当時を知るよすがもない。













前回お伝えしたこの空き地には、どうやら寛永寺橋工区の事務所や資材置場があった模様だ。
立坑はこの位置からすぐ右手の所にある。
















信ジラレナーイ!!
寛永寺橋立坑は、やはり寛永寺橋の手前にあった。
とすると、恐らくこれを見ている人の多くが「じゃあこの寛永寺非常口って何なの?」という疑問を持つに違いない。私もそうである。

まあ、ここまでの話の流れから十分お察しのことと思うが、そう、つまり、あれだ。

こやつは「寛永寺橋パイロット立坑」だったのだ。








引用の途中でわざと切ったのだが、パイロットトンネルの説明の続きは次の通りである。
p.402
13.パイロットトンネル
(承前)下谷工区は、本トンネル断面内にパイロットトンネルを施工したが、寛永寺橋工区は、パイロットを断面外に設けて、地山安定処理工法に使用し、開業後は、防災設備として使用できるように計画した。
 したがって、寛永寺橋パイロットトンネルは、本トンネル上部より掘進し、順次、側部に下って本トンネル側面で、坑道に連絡する必要からスパイラル状の線形となる。このため、平面および縦断の曲線が複合する急曲線トンネルの施工となった。

また文章的には非常に難解な構造である。一体どういう形なのだろうか。
そう、これこそ私がこの章においてもっとも描きたくない解説図が必要な場所だったのである。
まずその平面図である。
トンネル本坑の在来線に対する土被りはわずか10mほどであり、その予定ラインに対して巻き付くような形でパイロットが存在する。
パイロット自体の直径は4.3m(本坑は12.6m)で、土被りは5mしかない。
在来線への影響を出さないように、細心の注意が払われた。

立坑は、一段高い丘の上から18mあまり掘り下げられた。










前回の写真に重ねるとこんな感じになる。分かりにくい上に正確でないがどうかご容赦願いたい。

パイロットトンネルは、最小半径50m、本坑に取り付いてからR.L.までの立ち下がりに付けた勾配は何と341‰である。
シールドとしては極めて稀な急曲線・急勾配の掘削を、よりによって土被りの非常に薄い線路下で行うという、まさに究極の曲芸と言えるのではないだろうか。

341‰というと、ケーブルカー方式の斜坑の勾配(1/4=250‰)よりもきつい。恐らく通路は階段だと思われる。




ちなみに寛永寺非常口は、2007年になってお色直しされたようである。
最初にお見せした写真にあった緑色の柵や台形の柵は無くなり、真新しい銀色の柵が二重に防護している。覆っていたツタの類も除去されたようだ。
その代わり、5月上旬時点の話だが、この施設が何なのかを示す表示が一切なくなってしまった。










恒例のレンズ差し込み撮影。
中央にあるのが消火用の連結送水管である。この送水管はパイロットトンネルから本坑に入り、下谷立坑まで伸びている。

なお、この寛永寺非常口坑取付は新幹線の車内から確認できる。
下り列車が上野駅を出て左カーブが終わったなと思う辺りの進行方向左側に、非常用電話の緑ランプが2連続で見られる所がそうである。









佳境は日暮里立坑である。
寛永寺橋シールドの到着立坑と、日暮里トンネルの起点になる。
実際に行ってみて確かに狭い場所だと思ったが、工事誌には次の通り苦労話があった。
p.332−
(2)施工
(i)工事用桟橋仮設
桟橋取付部の在来道路は、1車線で大型クレーン車の進入はできず、しかも小型クレーンと材料運搬トラック2台並べると、道路は完全に遮断してしまう事になる。また、材料取卸し組立等は、クレーンの吊上げ能力の限界一杯になってしまい、かつ歩行者の通行さえも止めてしまうような状態となり、作業は遅々として進まなかった。
 急な斜路を下り方向でしかも右へ180度カーブさせなければならず、途中山手京浜線に直角に接近する箇所もあり、また、クレーンのブームぎりぎりまで倒さなければならず、この工事用桟橋の仮設工事が本工事全体の中でもっとも手のかかった難工事であった。

工事用桟橋とは、あの公園に降りていくスロープのことである。確かにUターンの格好で周囲は人家、突き当たりは線路という狭隘な場所であり、そこをクレーンを倒した状態で通るのは至難の業というほかない。
おそらくこの道幅では大型クレーンの通行は不可能なので、現役時代はもっと幅が広かったに違いない。






















そしてここをターンしたわけですな。























実は、芋坂人道橋のこの2本の橋脚だけが他と違う。
これはこの下に立坑を設置したためで、支障する元の脚を撤去して仮受けした後、立坑の用済み後に新たな橋脚を建造したのである。















日暮里立坑より日暮里方は、パイプルーフ工法の箱形トンネルであった。
パイプルーフとは、名前の通りトンネルの上部にあらかじめ鋼管を打ち込んで地盤を補強し、その下を掘り進む工法である。
ご覧のように在来線とは非常に鋭い角度で交差しているため、長尺スパン(77m)のパイプを打ち込むことになった。

写真の場所は、桟橋がUターンする反対側にあり、おそらく勝手に杭などを打たれては困るため上の土地もJRが管理しているものと思われる。







前回とは逆の方向から上野第二トンネル出口付近を見る。

福島トンネルの取材によって、トンネルというものを知った気になっていたのを見事に打ち砕いてくれた。また、地形図のトンネル位置が全く信用ならないこと、工事誌でさえも間違っている事など様々な教訓を得た。
これから先、またどんな場所で、どんなトンネルの上で先入観や常識を覆されるか、非常に楽しみである。











上野第二トンネル諸元表
名称 上野第2(うえのだいに)トンネル
(第二上野トンネルの表記もあり)
全長 1,495m(上野地下駅を含まず)
工区数 3
総工期 1977.2〜1985.2 8年0月
状態 供用:1985.3.14〜
摘要 立5(パイロット含、現用1)
名称 上野第2トンネル 終点
位置 5k841m<地図>
工区 日暮里(にっぽり)工区 257m
工法 開削、パイプルーフ
工期 1978.11〜1984.2
状態 供用:1985.3.14〜
名称 日暮里(にっぽり)立坑
位置 5k584m<地図>
取付 本線上 18 × 10 m 深さ19.6m
工区 日暮里(にっぽり)工区
工法 パイプルーフ、シールド
工期 1977.7〜1985.2
状態 供用:1985.3.14〜(トンネルとして)
名称 寛永寺橋パイロット立坑
位置 5k302m付近(取付5k179m)<地図>
取付  8× 8 m 深さ18.5m (取付本線左)
工区 寛永寺橋(かんえいじばし)工区 480m
工法 シールド+圧気
工期 1981.2〜1982.3、1984.3〜1984.10
状態 供用:1985.3.14〜(非常口、保守)
名称 寛永寺橋(かんえいじばし)立坑
位置 5k104m<地図>
取付 本線上 18.3 × 16.1 m 深さ30m
工区 寛永寺橋(かんえいじばし)工区 480m
工法 シールド
工期 1978.3〜1984.6
状態 供用:1985.3.14〜(トンネルとして)
名称 下谷パイロット立坑
位置 4k680m?<地図>
取付 本線上 7 × 9.7 m 深さ23m
工区 下谷(したや)工区 756m
工法 シールド+圧気
工期 1979.3〜1982.4
状態 廃止、埋め戻し
名称 下谷(したや)立坑
位置 4k355m<地図>
取付 本線上 20.4 × 18.4 m 深さ34m
工区 下谷(したや)工区 756m
工法 シールド
工期 1978.3〜1984.11
状態 供用:1985.3.14〜(トンネルとして)


−終−


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