Treasure Reports
第一編 東北新幹線(東京−盛岡)
第十三章 蔵王トンネル

第二節 最初で最後

調査資料

第一節で少し触れたが、蔵王トンネル東北新幹線(盛岡以南)において最も手こずったトンネルであった。
そのため、全体的に圧縮されて書かれている黒川−有壁間の工事誌でも、p.434-p.46229ページを割いている。

このトンネルの施工期間は1971(昭和46)年12月1979(昭和54)年8月である。二度のオイルショックがなければ昭和52年度開業をもくろんでいただけに、7年半の工期は予想外だっただろう。

蔵王トンネルに何があったのか。まずはその工区割から見てみよう。

工区割

蔵王トンネルは、上図の通り4工区に分割された(参考:工事誌p.435,459,460)。なお、資料の関係上、今まであった山の外形を描くことができないので、どのような場所を通っているのか掴みにくいと思うがどうかご容赦いただきたい。参考までに、最大土被りは原工区400m弱といったところだ。
福島トンネルと同程度の長さであるが、全くの山岳地形で取り付く場所が限られるため、中間2工区は工区境ぎりぎりの所から掘削を始めている。

工事経過

蔵王トンネル掘削の足を引っ張ったのは、藤田工区原工区の2つであった。
このうち、藤田(ふじた)工区1972(昭和47)年9月に着手するが、出口が川と崖による狭隘な地形のため、坑外設備とアプローチ道路を建設するための用地確保が難航し、1975(昭和50)年12月まで施工中止となってしまう。ただ、再開後の工事は順調に進み、1979(昭和54)年6月に竣工した。

隣の石母田(いしもだ)工区1971(昭和46)年12月着手。4000mという長大工区であったが、1976(昭和51)年6月には完了している。
終点方の中ノ目(なかのめ)工区1972(昭和47)年3月着手、1977(昭和52)年11月竣工である。

問題は原(はら)工区3190mである。
蔵王トンネルの計画線上には、大小20もの断層破砕帯が横断しているのだが、殊にこの原工区には大規模な断層破砕帯も存在し、その突破に際して異常出水膨圧地質に繰り返し遭遇するという非常に厳しいものであった。
実は工事誌の中身はほとんどこの原工区の破砕帯突破工事が占めており、如何に困難であったかを窺い知ることができる。一方で残り3工区の説明がたった1/2ページに集約されてしまい、詳しいことが何も分からないのが残念である。

下に原工区で掘削された迂回坑調査坑ボーリングおよび断層破砕帯の位置を示す(参考:工事誌p.435)。


さすがに上越新幹線中山トンネルほど大変なことにはなっていないが、迂回坑水抜坑の数はそれに匹敵する。
そして、中山と違って一応1976(昭和51)年6月には導坑が工区境に到達するのだが、その後の断面拡大と覆工・仕上げの段階で変状による縫い返し(覆工をやり直すこと)が何度も発生したことで完成が3年も遅れたのであった。

事前の地質調査がザルだったことが工事に響いた点については中山と同様である。工事誌p.434,459,462をみると、事前調査が十分でなかったこと、および社会情勢上工事費の低廉化に拘り過ぎた結果、事後の補修・補償等に多大な損失を出したことが反省点として挙げられている。


この時期の土木技術は、この蔵王中山、そして青函トンネルあたりを境に大きな変革を遂げてゆくことになる。
それまで経験工学が物を言ってきたトンネル掘削であったが、予期せぬ事態に何度も見舞われた結果が以後の技術に反映され、コンピューターによるシミュレーションFEM(有限要素法)解析手法が発展し今日に至っている。
蔵王トンネルの後、中山トンネル国内初のNATMが施行され、以後山岳トンネルの標準工法として幅をきかせてゆくことになる。

この節の題目である蔵王トンネルの「最初」、それはこの土地の難しさを知ってか知らずか他の交通網が手段としなかったトンネルを初めて掘ったということ。そして「最後」とは、在来工法のみで掘削された最後の長大トンネル、という意味であった。

それでは、例によって航空写真を使った状況把握を進めていくことにする。

南坑口〜藤田工区
南坑口の目の前は、1975(昭和50)年4月に開通したばかりの東北縦貫自動車道(正式名)が通っている。まだ車の数はまばらだ。
新幹線の方は、付近の高架橋は出来上がりつつあるものの、まだ藤田工区の工事が中断していた時期なので坑口は見えない。

ちなみに、新幹線の資料を引っ張り出してくると必ず高速道路の路線図もセットになってくるのだが、国土計画の軸として同時期に設計が進められたからだろう。実際に東北道関越道は新幹線の工事と前後して進められ、残土、工事用施設の利用などが効率的に行われている。

石母田工区
石母田工区は、入口から少し山を回り込んだ斜面の中腹に横坑を設けている。竣工が写真の1年後のようなので、ほとんど坑外設備は撤収してしまったようだ。

4000mもの長大区間を施工した割に、取り付け道路が他の工区と比べてやたら貧弱である。しかもこの周辺からは土捨場を確認することができなかったのだが、大量の土砂はどこへ行ってしまったのだろう。東北道の盛土になったと推測することも可能ではあるが。













原工区
石母田工区からは7kmほどで、だいぶ間が空く。
ここも山の中腹に展開しているが、場所が狭隘なため広範囲にわたって諸設備が点在している。

まず斜坑口はこのあたり。
南側にわざわざ斜面を削ってコンクリートのプラントが置かれている。コンクリートは混ぜたら最後、打設現場まで速やかに運ぶ必要があるため近くに置かれたのだろう。

東側は斜坑から汲み上げた湧水を浄化する施設があり、工事期間中は枯渇した各地区へイプラインで送水していたようだ。
斜坑へ向かう道路の途中に事務所群が並ぶ。

右上、東北本線跨線橋が二つ架かっているが、北側の細い方はおそらく1963(昭和38)年にこの区間が複線化したときに造られたものであろう。同様の橋を通ったことがあるが、軽自動車がやっと通れる程度の道幅しかなく、工事用車両が通れないので大きい方を新設したと思われる。






まだある。
全体が入りきらないのでこの写真だけ1/2に縮小した。

工事用道路は最終的に国道4に取り付くが、その手前で捨場への道が分岐する。
相当な規模であることが窺い知れる。











上の写真から500mほど北へ行ったところにもう一つ土捨場がある。
ここも相当な量で、谷一つ埋まるような感覚である。














中ノ目工区
中ノ目工区の竣工は52年11月とまだ先の話だが、横坑口の前は片付いてしまっている。
国道4号に近接しておりアクセスは申し分ない。

なお、工事誌では「中ノ目」と「中目」で表記揺れがあるのだが、ここでは「中ノ目」に統一する。
以前この付近には東北本線中目信号場があり、複線化完了時に廃止された。







北坑口周辺である。
新幹線はここで国道4号・東北道・東北本線と交差し、まっすぐ白石蔵王駅へと向かう。

こちら側の坑口は既に出来上がっているようだ。














次回は藤田・石母田工区の現地取材レポートです。


第三節 現地調査(1) へ続く

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