Treasure Reports
第一編 東北新幹線(東京−盛岡)

第十章 第二粟須トンネル
駅間:郡山−福島 位置:東京起点234k499m−235k449m 全長:950m


隧道の輪郭
全一回

東北新幹線 第二粟須(だいにあわす)トンネルは、福島県二本松市地内を通る、全長950mのトンネルである。

福島トンネルの2つ手前のトンネルにあたり、この区間中では白沢トンネルに次ぐ長さとなる。市街地から外れた丘陵地帯を抜けるため、小規模なトンネルが断続する区間である。

トンネル名の由来は、付近にある「粟ノ須古戦場」から来ているものと思われる。伊達氏と二本松の名代畠山との因縁の地で、これがきっかけで畠山氏は滅亡したと伝えられている。

国道459号は筆者もよく通りなれた道である。国道に昇格したのはそう古い話ではない。
以前から、東に向かってるのにどうして新幹線と交差しないのか不思議で仕方なかったのだが、相手は地面の中だから当然である。ただ、この道路を実際に走ってみると、一体どの位置で交差しているのか分からないほど地形的におかしく感じるに違いない。これは通ったことのある人だけが分かる妙な感覚である。










色々とあったらしい

このトンネルは、たった5ページだが工事誌に記載されている。
それによると、このトンネルはほぼ全体が風化花崗閃緑岩中を通るため大変軟弱で、しかも地下水位が高かったという
(p.418-419)
p.419図2-3-1およびp.420-421本文から、導坑掘削中に何と4カ所地表陥没を起こし、注入・止水を経てようやく貫通させている。短い割に曲者だったようだ。

また別の問題があった。県道二本松・浪江線(現国道459号)の交差部分である。
この区間(工事キロ程233k195〜233k225)は土被りが2〜4mしかなく、通常の工法では規定の自動車重量を支えきれないことから全断面開削に踏み切った。
つまりこれまでに見てきた事例からすると、道路との交差部分に何かの痕跡が窺えても不思議ではない。

本トンネルの工事期間は1973(昭和48)年12月1日〜1977(昭和52)年4月30日である。
航空写真の撮影時期と合致しているため、有力な手がかりとなるはずだ。

北坑口付近
第二粟須トンネルの掘削は、この北坑口側から開始された。
工事期間を考えるとまだ半ばくらいであると思うが、どっしりとしたポータルが既に出来上がっている。他方、南坑口の方は鉄道用地の刈り払いがしてある程度で姿形はない。

坑口から50m間は土被りが薄いため上半開削によって施工された。ここと道路交差部分を除いた場所はサイロット(側壁導坑先進上半先進)工法による施工である。

この写真が撮影された時期と、先述の陥没が起きた時期の前後は不明であるが、解説の方にはおおよその位置を示しておいた。何となく手直ししたような跡がある気がするのだが、果たして。




























交差部付近
こちらは問題の道路との交差部分である。
トンネルの推定位置には奇妙な物が写っている。ただ何かの影なのか、穴なのかは判別しにくい。
工事誌p.52によると、1974(昭和49)年4月から道路付け替えを行い掘削を開始したとあるため、北側に広がった更地は道路の付け替え用地ではないかと推理する。
もっとも、わずか1年で全部が終わるとも思えないので、これから道路を振るところと言えなくもなさそうだ。






やっぱり素通り
まずは北坑口。
安達ヶ原T三合内Tとのわずかな明かり区間だが、防風・吹きだまり対策のためか背の高い壁で連続的に覆われている。

微気圧波対策の緩衝工がいた、非常にものものしい外観である。













この類の坑口で銘板を見るのは少し苦労する。

…というか、重なってない?

工事誌にも一言書いてある。
「後から緩衝工を追設したので本来の坑門の意味をなさなくなった所がある」「今後は微気圧波対策を念頭に置いた設計とするべき」と。
金のかかるトンネルで、唯一人目に触れるのがポータル。煉瓦積み時代に比べれば簡素だが立派に造ってあげたいという工事関係者の思いは不変のようだ。
折角の顔を鉄仮面で覆ってしまうのが忍びなかったのだろう。

北坑口の上部。
上半開削で施工した部分である。

奥にはどう見ても跨線橋の三合内トンネル(44m)、続いて山の稜線のあたりに安達ヶ原トンネ(次章紹介)となる。

天井部の地面には二級基準点(写真中央)が埋め込まれている。










こちらは南坑口。
緩衝工のないすっきりとした外観となっている。
短いトンネルでは緩衝工は片側だけ設置という箇所が少なくないが、それで効果はあるのだろうか?
また、もうすぐ始まる320km/h運転に向けて、緩衝工を増設するという話も聞く。トンネルの顔はまた変わるのかもしれない。










南坑口を出てすぐの道路はこんな感じで掘り下げられている。

福島トンネルの章を手掛けた際、「明かり区間の諸問題」というのがあったが、こういう造作のことを指すのだろうか?
もし福島トンネルが当初の設計通りに完成していたら、例の区間はこのような外観を呈していたことになる。










南側の明かり区間も短く、すぐ隣の第一粟須トンネルとなる。
このトンネルは、仙台工事局管内でNATMを採用した数少ない例である。管内88トンネルのうち、NATMによったのはたった3トンネル、それもこのトンネルの南に続く第一・第二平石トンネで全部である。












で、ようやく交差地点に行くわけだが、

最初から疑って掛からないと分からんでしょ、これは。

明らかにラインが出ているのは確かなのだが、これを道路を走りながら確認するのは困難であった。都合三往復ほどしてようやく特定したが急停車するわけにもいかない。










近寄ってみると、やはりあった。
これはこのラインが軌道中心線と考えていいのだろうか。




















道路を挟んだ北側には、用地境界標が延々と続いていた。
開削したのは道路部分の46mだけなので、残りは区分地上権設定によるものと思われる。

















振り返って交差部分を東京方に写す。
全断面開削を行ったのはまさにこの写り込んだ範囲ということになる。
十文字トンネル新城舘トンネルのようなあからさまさは無かったが、地面に生えた無数の「標」がトンネルの姿を浮き彫りにしていた。












次回で小ネタ集は一区切りです。


−終−


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